湊会所はオランダ坂の北側登り口のそばにあった。 市民病院の前に立つ運上所跡の石碑と解説板。
長崎の運上所もこんとき右へ倣いした。これがいまの長崎税関タイ。どこにあったかていうと、いまの市民病院。慶応2年(1866)ここに建てられとったていう石碑が市民病院の前に立っとる。
長崎税関下り松派出所は、明治31年(1898)に改築竣工した。以後派出所として使用されてきたていう。
なんで市民病院のとこからは500mぐらいしか離れとらんとい、松ヶ枝に派出所が要ったとかは、分からんバッテン、波止場がすぐで現場事務所として便利やったとかな。
建物は、正面ば海に向けて建つ 瓦造平屋建で、正面両端に三角破風(はふ)ばつけた威厳のあるデザインになっとる。倉庫として使用していたことがわかる鉄の扉も当時の姿ば残しとる。
内部には、検査場、倉庫、事務室などがあって、小さかバッテン、附属の便所、敷地ば囲む瓦塀などとともに、明治の税関施設の状況ばよう伝えとるていうことで、平成2年に国の重要文化財として指定された。
指定は受けたもんの、老朽化がはげしかったケン、平成10年(1998)から平成13年(2001)にかけ、半解体してほぼ全面修理ばした。そしてクサ、それまでは長崎市歴史民俗資料館分館として使いよったとば、完成したあと、平成14年4月に「長崎市べっ甲工芸館」として開館した。
いまは税関時代の資料も展示してあるバッテン、全国各地から集められたべっ甲工芸品やら、べっ甲の歴史、べっ甲の製造に使用した道具などが主に展示されとる。工芸館の目的が「べっ甲細工の技術と技能ば保存するため」ていうだけあって素晴らしか作品ば見ることがでける。
上左・入口の上には「バラ窓」のごたる装飾がしてあって、税関にしては洒落とる。
上右・倉庫の入口にはかんぬきのかかった重々しか鉄の扉が、ちゃんと復元されとった。
左・建物の内部。あかりとりの窓ば活かすため天井はのうて、屋根の骨組みがそのまま見えとる。
下・むかし「さがりまつ」ていいよった埋め立て地が「松が枝」になって、町名にも電停にも信号にも橋の名にも「下り松」の名は残っとらん。
賑あう大浦海岸通り。奥の二階建てが旧上海銀行。手前が長崎べっ甲工芸館になった旧長崎税関下り松派出所。
ところで町名やら電停は「松ヶ枝」てなっとるとい、なし「下り松」ていうとやろうか、
長崎では昔、外国人のことばすべて「オランダさん」て呼んどって、東山手と南山手の居留地に通じる石畳の坂はみんなオランダ坂やった。東山手のオランダ坂と区別するために、ここの坂ば下り松(さがりまつ)オランダ坂ていいよったらしか。
グラバー邸に大きな松の木があったケン、グラバー邸ば「南山手一本松」て云い、海岸通りの埋め立て地ば一本松の下やケン、「下がり松」て呼んどったていう。その後、「下がり松」では縁起が悪かていうことで、松が枝町に改名されたとゲナ。
バッテン、「下り松」の名前がいま残っとるとはこの「旧長崎税関下り松派出所」だけタイ。
べっ甲細工は長崎の得意技
べっ甲の原材料が亀の甲羅ていうことは誰でも知っとることバッテン、正確には「タイマイ」ていう亀の甲羅ば利用した工芸品のこと。タイマイは熱帯産のウミガメの一種で、体長1mもあるていう。
タイマイの甲羅は糸のこなどで切り出され、削られ、そのパネルば張り合わせることで加工していく。この張り合わせやら彫刻の高い技術ばべっ甲細工て呼んどる。
日本のべっ甲細工製作の歴史は、300年以上にもなるていわれとる。長崎では昔からこのべっ甲細工が発達し、今でも県内にはべっ甲店が数多くあって、べっ甲は長崎の名産品のひとつとなっとると。
長崎でべっ甲細工が発達したとはクサ、徳川幕府の鎖国で、長崎港だけがオランダ人やら中国人との貿易港やったケン、原料ば入手しやすかったとが理由タイ。その後長崎での技法が江戸などへ伝えられたけど、長崎はべっ甲細工伝来の地やった。
工芸館では江戸で製作されたものも展示されとるケン比較できる。「一目で長崎べっ甲の精緻さ、大胆さ、優美さが分かります」て説明しんしゃったバッテン、素人にはよう区別がつかんやった。
主な展示品にはオランダ船、帆船、宝船、龍、夢殿、香入れ、御所車、天馬、鯉、小槌、伊勢海老、五重塔、宝石箱などがあって、全部が「値段のつけられんぐらい」高価なもんばっかしゲナ。