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玉名干拓の始まり
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県指定重要文化財 | |
明丑開( めいちゅうびらき)堤防は、玉名市横島町にある。 横島町は玉名市の南、有明海に面して、菊池川と唐人川にはさまれとるバッテン、かつては島やった。 当時この地域は、高瀬より南に広大な三角州が形成されとったケン、もし、菊池川の流れば付け替え、潮受け堤防ば作れば、広大な領地が造成できると、清正は考えたと思われる。 肥後国入国の翌年の天正17(1589)年にはもう工事に着手し、まず、最初に取り掛かったとが、菊池川の水ば高瀬から大浜方面さい変更する大工事やった。新菊池川の新しか流路となる場所ば掘削し、掘削した両岸に堤防ば築き、新水路へ水ば流し、現在の菊池川への流れ変更ば突貫工事でわずか3年でやった。 次に、潮受け堤防に取り掛かり、三角州ば包囲するごと、千田川原から横島丘陵の東ば結ぶ東塘(ひがしども)と、大浜と横島丘陵ば結ぶ西塘(にしども)ば築き、広大な土地ば誕生させた。 ここで加藤清正について 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い、関が原の戦いと武功ば立てた加藤清正は、戦国時代が終わりば迎えた1588年に、肥後国(ひごのくに)の北半分ば任されこの地に入国した。 清正はあんまり知られとらんバッテン、熊本城や江戸城・名古屋城などの建築に携わった優秀な土木技術者やった。土木の神様ともいわれとった、その技術はここ玉名横島地域でも発揮された。 入国後、清正は早速領地内の視察ばしとる。その視察で目ばつけたとが、高瀬と横島山に挟まれたこの地域。その当時、横島山は島で高瀬から見たときに横に細長く伸びて見えとつたもんやケン、「横島」ていう名前が付けられとった。 清正がその知恵ば結集した世紀の大工事は、17年かかって慶長10(1605)年にようやく完成。小田牟田新地(おだむた しんち)として、あらたに約880町歩(1町歩とは1ヘクタールに相当)の土地がでけた。 清正が着手した玉名横島の干拓は、寛永9(1632)年にその子忠弘が出羽(でわ)へ国替(くにがえ)された後、細川氏へと受け継がれた。 細川氏に代わっても寛永元(1624)年から43年の間に比較的小規模な干拓が繰り返された。 文化4(1807)年、細川藩三家老の一人である有吉家によって一番開(いちばんびらき)(14.6ha)が造成され、干拓が再開されると、以後、慶応2(1866)年に造成された十番開(じゅうばんびらき)まで10カ所の干拓事業が精力的に行われたていう。 第二次世界大戦後の食料難から、国は緊急食糧増産のための農地造成ば掲げ。全国各地で農地造成のための干拓事業が行われ始め、玉名横島もまた、その一環として干拓事業が行われることになった。 昭和21(1946)年に着工された国営横島干拓事業により、昭和42(1967)年に潮受け堤防が完成した。その後も続けて様々な施設の整備が行われ、昭和50(1975)年3月、全ての工事が完了し、今日に至っとる。 着工から30年、総工費65億円をかけて行われたこの大事業によって、新たに、623.8ha(うち農地479ha)が造成されたていう。 明治後期になると、徐々に民間の手によって干拓が行われるようになった。 明治25(1892)年、富新開(とみしんびらき)(52.4ha)ば皮切りに、大正3(1914)年まで、菊池川両岸で比較的大規模な干拓が積極的に行われた。 明治26(1893)年から明治35(1902)年に建設された明丑開(めいちゅうびらき)、明豊開(めいほうびらき)、末広開(すえひろびらき)、大豊開(たいほうびらき)の4カ所からなる総延長約5kmの潮受け堤防群が完成する。 それに付随する樋門も現存するなど当時の技術水準の高さを示すもので、明治の大規模な堤防と樋門が残る全国でもまれな干拓の遺産になっとる。 有明海干拓の歴史ば物語る貴重な構造物というていい。 ↑→ 堤防のなかのあちこちに作られた「樋門」 | |
場所・玉名市横島町横島字明豊開。太宰府ICから九州自動車道ば67km、40分。普通車ETCで1,350円。下りたら取付道路から右折して県道16号線ば菊池川に沿うて約12km。鹿児島本線の踏切ば渡ったらやく6のもの「天水町部田見」信号ば直進してすぐ唐人川ば渡る。県道501号線の左手に干拓が広がる。 取材日2007.12.14 | |
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