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明治から大正にまたがった水の橋         「大分県」の目次へ
 推奨土木遺産

 明正井路一号幹線一号橋(めいせいいろ いちごうかんせん いちごうきょう)は、大分県竹田市大字門田の大野川水系緒方川に架かる水路用石造アーチ橋。明正井路第一拱石橋(めいせいいろ だいいち こうせきはし)てもいう。

 
字で書いちゃあごと、明正井路の一号幹線の水路橋で、日本国内で最大規模の水路用石造アーチ橋タイ。でけあがったとは大正8年(1919)やったケン、もう人間なら卒寿(90才)タイ。

 阿蘇の浸食谷が広がるこの地域では、深か渓谷が台地ば分断し、人の交通はもちろん、水の行く手も阻んどった。そのため、生活用水はもちろん農業用水にも事欠くありさまやった。
 人々が水で苦しんどったとは、熊本県もいっしょ。火山の裾野の宿命やねぇ。

 井路の開発は江戸末期すでに構想があったとバッテン、大正年間に入って大分県知事は国づくりば積極的に進めた。

 明正井路は、大野川流域の耕地ば潤すために開削しょうていうもんやった。
 しかし起伏の多かこの地域では、多くの水路橋ば架けないかんやった。

「明正」ていう名は、計画から工事が明治・大正にまたがったけんタイ。

 この中で最も大きな「明正井路第一拱石橋」は、その代表格の橋でクサ、県道と緒方川ばまたぐ6連のアーチの上に、4段の石壁ば積んで通水部ば造るていう重厚な構造になっとる。

 石工の扱い易か大きさに規格化された石ば、端正な布積みにした構造が、豊後らしい頑強さば主張しながらも美しか。

 橋の長さは78.0m。橋の高さ13.0m。橋の巾2.8m。径間(アーチの幅)10.7m。拱矢(アーチの高さ)3.3m。環厚(輪石の厚み)60cm。

 橋の銘板には、この開拓事業ば主導した大分懸知事従四位勲五等新妻駒五郎の名が刻まれとった。

 
このほか竹田市には、若宮井路笹無田水路橋、明治岡本井路堀河水路橋、明治岡本井路4号橋、明治岡本井路3号橋、笹川発電所水路橋、宮野井路橋など数えきらんごと水路橋がある。

 何でこげん水路橋ばっかしか。それは水の豊富なくせに、むかしから水不足に悩む人々がたくさんおった証拠で、水路橋のお陰で救われとんなぁとタイ。

 2002年に土木学会選奨土木遺産に選定されとる。
 橋の上にもあがってみたバッテン、いまでも元気で水もスイスイと流れよった。

 明正井路は緒方川から取水して、緒方町402haと清川村の水田498haば灌漑する水路で、その総延長は175km(幹線48km、用水路127km)にもなる。

 水路全体がトンネルと橋による導水部分が多く、なんと17基もの水路橋ば架けたていう訳。これほど多数の石橋ば架けた大規模灌漑は全国的に見ても珍しかとゲナ。

 工事は最初から資金不足にも悩まされとって、当時、この設計から施行ば監督しとった県の矢島義一技師は、心労のあまり、第一が終わって第二井路ば作る途中、38才で自殺しんしゃったていうほどの難かしか事業やった。
 彼は福島県会津の出身で優秀な土木技師やったとに惜しいことばした。

 石工は熊本出身の平林松造ほか9名やった。熊本の通潤橋もいっしょバッテン、深い谷やケン、高い橋ば架けないかん。しかも、水ば通すケン、橋には重量がかかる。大変な技術が要る橋ばっかりやった。

上・手前が県道8号線で、その向こう緒方川。「布積み」の壁面が貫禄で、橋脚の上流側にはチャンと水切りが付いとう。
左・丁度桜の季節で、地元のおばあちゃんが野良仕事ばしよんなった。

 場所・竹田市大字門田。竹田市から県道8号線ば緒方川に沿うて約8km南下すると県道ば6連の石橋が跨いどる。それが明正井路一号幹線一号橋。                            取材日 2007.3.29

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