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時代ば先取りした佐賀藩の軍事施設        「佐賀県」の目次へ
世界文化遺産登録         

 安政5年(1858) ていうケン、いまからやったら160年もまえ、当時、第10代肥前国佐賀藩主・鍋島直正( なべしま なおまさ)のもとで、時代の先取りしとった佐賀藩は、蒸気船ば造船したり修理する施設ば作っとった。
 また、西洋船ば動かすための教育・訓練機関まで持っとった。

 どこに そげなもんがあった ?   今の佐賀市川副町大字早津江。

 久留米からちっご川ば河口の方へ下って来ると、まず中の島ていう南北に1Km、東西400mの中洲がある。

 ここは住所でいうと佐賀県諸富町徳富。国道208号線で東は大川橋で福岡県の大川市と、西は諸富橋で佐賀県諸富町と繋がっとる。

 この中の島の南端から200mばかり下流の筑後川昇開橋ばくぐると、筑後川にはここにも大野島ていう大きな中洲があって、流れは二手に分かれる。

 東が本流で大川市ば流れ有明海に注ぐ。西に分かれたとが早津江川いうて、佐賀県の川副町ば約2Km流れて有明海に到着する。

 佐賀藩の三重津海軍所( みえつ かいぐんしょ) は、早津江川に入って約2Kmほどの右岸にあった。

 
もともとここには昔から佐賀藩の「御船屋」いうとがあって、海軍の伝習機関の役割ばもっとった。そやケン、当時の記録には「御船手稽古所」ていう名称も残っとる。

 1859年( 安政6年) には幕府がそれまでの「長崎海軍伝習所」ば閉鎖したもんやケン、留学させとった大勢の佐賀藩士の士官教育ば続けさせるため「御船屋」ば拡張しとる。

 ここでなんば教えよったかていうと、航海、造船、鉄砲などの学科があって、その技術教育が行われとったていう。

 なし佐賀藩がこげん早ようから船にこだわったとか ?
 佐賀藩は江戸時代、幕府の命令で、福岡藩と交代ごうたいで長崎港の警備ばしよった。これは歴史で教わってみんな知っとることやろう。

 ところが文化5年( 1808) 、佐賀藩が長崎港警備の当番やった年に、イギリスの軍艦フェートン号いうとが、オランダ船のフリして長崎港に侵入。オランダ商館員ば人質にとって「船の燃料の薪やら食料ばやれ。云うこと聞かんやったら長崎港の船ば全部焼き払う」て脅迫してきた。これば「フェートン号事件」ていう。

 それに対抗する兵力のなかった長崎奉行所やら佐賀藩は、急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩などに応援ば求めたバッテン、すぐには間に合わん。長崎奉行所は云われるとおり食料や飲料水に牛まで1頭つけてフェートン号に差しだした。

 翌朝未明、近くの大村藩主大村純昌が藩兵ば連れて長崎に到着したとバッテン、フェートン号は碇ば上げ長崎港外に去ったあとやった。

 フェートン号のいうなりになってしまい、その脅迫に屈してしもうた長崎奉行の松平康英( まつだいらやすひで) はその責任ばとって切腹。佐賀藩藩主鍋島斉直( なべしまなりなお) は謹慎処分になってしもうた。

 このことがあったもんやケン、佐賀藩は外国勢力に対抗でける力ばつけるため、三重津海軍所ば充実させ、洋式海軍の創立やら洋式艦船の整備ば進めていくことになっていった訳タイ。

 それば実行した
鍋島直正( なべしま なおまさ)は、この問題で切腹させられた9代藩主・鍋島斉直の十七男で号は閑叟( かんそう)。「佐賀の七賢人」の一人ていわれ佐賀で閑叟さんていえば知らん人はおらん。

 ここでは教育のほか、蒸気船の修理・製造も行なわれ、オランダ製の木造帆船「飛雲丸」や木造スクリュー蒸気船である「電流丸」、木造外輪蒸気船「観光丸」などの根拠地になっとった。木造帆船「晨風丸」もここで建造し、慶応元年(1865) には日本で初めての実用蒸気船「凌風丸」ば完成させたことは有名タイ。

 三重津海軍所跡があるいまの佐賀市諸富町・川副町の一帯は、幕末当時、三重ていう地名やった。
 港のことば津ていうたケン、三重の津、「三重津」て呼ばれとった。佐賀藩は御船屋があった三重津に御船手稽古所( おふなてけいこしょ) ば設けた。これが三重津海軍所の始まりていわれとる。

 船の操縦やら射撃などの訓練ば行うほか、船ば修理したり作ったりする機能も次第に整備し、今の早津江川西側の河川敷に約600mにわたり広がっとったていう。

 三重津海軍所の様相については「三重津海軍所図」いうとが残されとって、これによると、海軍所の機能は北から、「海軍寮( 役所・学校機能) 」エリア、「舟入場」エリア、「訓練機能」エリア、「製罐所・船渠」( 蒸気缶製造・ドック機能) エリアに分かれとつたことが分かる。

 筑後川支流「早津江川」の右岸にあった「三重津海軍所跡」は「佐野常民記念館」の土手から見える。左が上流。

 三重津海軍所の閉鎖された年代はよう分からんバッテン、慶応3年(1867) の戊辰戦争に出兵する藩兵たちの乗船地になったていう記録が残っとる。

 海軍所が廃止された後は明治35年(1902) に佐賀郡立海員養成学校いうとが設立され、明治43年(1910) には佐賀商船学校となった。この佐賀商船学校は昭和8年(1933) に閉校するまで地域の海員養成学校として多くの卒業生( 800人以上) ば海運業界へ送り出しとる。

 近年、発掘調査と文献調査が進められ、平成22年(2010) に世界遺産「明治日本の産業革命遺産群」 暫定リストへ新規登録された。また2013年には国の史跡にも指定された。

 新しかニュースでは、ユネスコの諮問機関である
イコモス(国際記念物遺跡会議)が、2015年5月4日に「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産への登録を勧告し、韓国と中国がグズグス文句いいよるバッテン、6月28日からドイツのボンで開催される第39回世界遺産委員会で登録が正式に決定されることがほぼ決まっとる。

 遺跡隣接地にある「佐野常民記念館」には、三重津海軍所ドックの模型や実物大写真パネル、出土遺物展示、3D映像によるドック使用方法や佐賀藩近代化事業のインフォメーションコーナー( 3F) 、佐野常民業績と赤十字関連展示( 2F) 、関連図書閲覧・3D動画( 時空タイムクルーズ) コーナー( 1F) が常設されとる。

「佐野常民記念館」の前にある佐野常民の銅像は佐賀市のほうば向いとんなる。


 佐野常民さんちゃなんな ?

 坂本竜馬などもここで海軍としての修練に励んだていう長崎海軍伝習所の、 その長やったとが「佐野常民」で日本海軍の礎ば築いたていわれとる人物で、かつ日本赤十字社の創立者でもある。

 
佐野常民(さのつねたみ)は佐賀藩士下村充贇(しもむらみつよし)の五男として生まれ、藩医佐野常徴(つねよし)の養子になっとる。藩校弘道館(こうどうかん)で医学ば修め、藩命で京都・大坂へ遊学。大坂では緒方洪庵の適塾で蘭学(らんがく)ば修得。帰ってきて藩の精煉社の主任になり、安政2年(1855)日本最初の蒸気船、蒸気車の模型製作に成功、文久3年(1863)には蒸気船「凌雲丸」ばつくった。

 慶応3年(1867)パリ万国博覧会見学のためもあってフランスに留学、工業技術ば学ぶとともに
赤十字社のことば知った。

「佐野常民記念館」の正面。佐野常民の銅像と佐賀商船学校の記念碑が迎えてくれる。

 明治10年(1877)におこった西南戦争で出たおびただしか死傷者のうち、官軍側の負傷者は軍病院に収容されて手当てば受けたとバッテン、西郷側の死傷者は山野に放置され、その惨状はみられたもんじゃなかった。

 これに対して佐野常民らは「西郷側の暴徒といえども天皇の赤子であることには変わりない」て政府に請願書ば提出。かつて佐野が藩命でパリに行ったときにその存在ば知った赤十字社にならい、1877年博愛社ば創設した。

 博愛社はその後陸軍の後援のもとに博愛社病院ば作り,同時に赤十字条約に加入。1987年、日本赤十字社と改称されたとき、佐野常民は初代社長として就任した。

 日本海軍の祖であると同時に、日本赤十字社の創立者として、三重津の記念館からその後の日本ば心配そうに見守っとんなる。


     「フェートン号事件」とは ?

「佐野常民記念館」は佐賀市の方ば向いた正面から入って、川沿いの裏手へ出るとそこはもう三重津海軍所跡。

 これが決まったら正式に「三重津海軍所跡」も世界遺産になる。
 なおいっしょに世界遺産に登録される遺産については「小菅修船場」に
 そのリストば載せとります。
  http://www.geocities.jp/tttban2000/Room/sight/isan/title.html

 遺跡は調査後に埋め戻され、三重津海軍所で活躍した後に赤十字社ば起こした佐野常民の「佐野記念公園」になっとる。現地に設置された説明板で海軍所の施設配置などについては想像できるごとなっとるバッテン、残念ながら埋め戻されたいまの風景から当時の活気ある状況ばイメージするとは難しか。

 これは、発掘された遺構が木や土で構築されているため壊れやすく、貴重な資産ば保護して後世に残すためやむをえんとやろう。

 場所・佐賀市川副町大字早津江。九州自動車道ば鳥栖JCTから長崎自動車道に入り、一つ目の東背振ICで下りる。下りたら左折して国道385号線ば約12Km南下し筑後川ば「青木中津大橋」で渡る。橋ば渡ったらすぐに右折して川沿いの県道47号線ば6Kmで「大川橋」信号。これを右折して大川橋と諸富橋で筑後川を渡り返し、橋のたもとば左折。県道444号線ば筑後川昇開橋の「石塚」信号で右カーブして2Km弱で「佐野常民記念館」の案内板がある。そこを左折して約400mで到着。記念館のウラの土手に上がれば、そこが三重津海軍所跡。   取材日 2013.02.22

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