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三井財閥の力ば見せつけた港の迎賓館        「福岡県」の目次へ
 大牟田市指定文化財

 大牟田の三池港にある三井三川坑跡と、背中ば合わせるごとして、スイスのスキー場で見るごたあ洒落た建物がある。これが旧三井港倶楽部で、「みついこうくらぶ」いうたらいかんと。「みつい みなとくらぶ」ていうとタイ。

 平成17年12月12日 大牟田市指定文化財の指定ば受けた三井炭坑の近代化遺産のひとつ。

 これは、明治40年(1907)に清水組(現・清水建設)の三代目社長・清水満之助が設計・起工して、明治41年8月15日、三池港の開港とぴったりあわせてでけあがった。

 なんのために作ったかていえば、外国からの高級船員ば泊めたり、あるいは皇族やら政財界人の迎賓館とし使うためやつた。要するに三井財閥の接待の場所、社交倶楽部やったっタイ。球戯(ビリヤード)場なども設備されとったゲナ。

 昭和49年(1974)には、三井三池炭坑三川坑に来なった昭和天皇も立ち寄んなったゲナ。

 木造2階建て、延べ床面積約810平方メートル。平方メートルでピンとこん人は約250坪ぐらいと考えてもらえばヨカ。外観は柱と梁ばわざと露出させて、間ば漆喰で埋めた派手な造り、いかにも石炭で儲かった炭坑屋らしか。

 こげな作りば専門的には
ハーフティンバー様式ていうとゲナ。昭和44年、明治ば代表する洋風建築物として、日本建築学会からも文化財の推薦ば受けとる。

 広うて金ばかけた庭と部屋ば繋いどるバルコニーにも、金持ちの趣味がプンプン臭うとる。建物の中は各部屋に様式の違う大理石などのマントルピース(暖炉の飾り棚)があって、壁には初代総理大臣・伊藤博文の直筆書画やら掛けてクサ、ちょっとでも格調高っか優雅な空間ば作りだそうて苦労の跡がみえみえタイ。

 素直に見ればよかとにクサ、なし、皮肉たらたら書いとるかていえば、駅長はプロレタリヤやケン、こげな金満主義が「虫ずの走るごと」好かんとタイ。

 ここで三井三池炭鉱(みついみいけたんこう)の話ばダイジェスト版でしてみろう。

 文明元年ていうケン1469年。応仁の乱の頃のはなし、 農夫の伝治左衛門いうがクサ、三池郡稲荷(とうか)村の稲荷山(いまの大牟田市大浦町あたり)
で「燃ゆる石」ば発見したゲナ。これが大牟田の石炭の始まり始まりタイ。

 江戸時代には、三池藩が採掘(露天掘り)しよって、ここで採れた石炭はクサ、瀬戸内海で塩ば作るとの燃料として売られとったゲナ。

 明治維新後は官営になり、囚人ば使役して
(九州遺産・集治監のとこば見てね)掘りよったとバッテン、明治22年(1889)、それまで三池炭鉱の石炭の、輸送と販売ば一手に引き受けとった三井組に払下げられた。
 この三井組いうとが、三井財閥の始まりタイ。

 そん時、明治政府の工部省鉱山局官吏として、三池炭鉱に赴任しとったとが
団琢磨いうて、作曲家団伊玖磨のじいさんやった。払い下げと同時に団琢磨は三井に移籍して最高責任者(事務長)に任命されとる。天下りの1号かも知れん。

 明治25年(1892) 三井鉱山が創立され、団専務のもとで経営の近代化、合理化が進められた。

 明治31年(1898) 宮原坑が操業開始。
 明治41年(1908) 三池港が開港。

 昭和5年(1930) 女子の入坑ば廃止、囚人の使役ば廃止。昭和6年(1931) 三池集治監閉庁。

 昭和15年(1940) 三川坑が竣工。と、ここまでは良かったとバッテン・・・・・・
 終戦後
 昭和35年(1960) 三井三池争議 石炭の斜陽化で大量解雇の方針が出されたもんやケン、激しか労働争議が行われた。

 昭和38年(1963) 三川坑炭塵爆発事故で458人死亡、一酸化炭素中毒839人。昭和59年(1984) 有明坑坑内火災で83人死亡。

 日本の近代化ば支えてきた存在やったバッテン、とうとう平成9年(1997)3月30日
 三池炭鉱はすべてば閉山してしまえた。

 ところでこの建物、昭和61年(1986)に改修して結婚式場やらレストランとして使われとったとバッテン、平成16年からは所有しとった三井鉱山(東京)が経営難ば理由に閉館したまま放置されとった。

 しかしすぐに保存ば求める声があがり、市民やNPO法人「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」と共に、保存へ向けた署名運動がスタート。結果、約1か月あまりでおよそ28,000人もの署名が集まったていう。

 2004年末、地元の経済界有志が受け皿となって株式会社「旧三井港倶楽部保存会」ば設立。三井鉱山が2億5000万ていうとば、7,000万に値切って買い取ったうえで、閉館から約1年後の2005年11月に再オープンさせたていう訳。

 古き良き明治時代にタイムスリップしたごたあ「三井港倶楽部」100年近い年月の流れの中で、ここだけは時間が止まっとる。いまも鮮やかな緑の庭園に囲まれ、当時そのままが維持されとるとは凄か。至るところに飾られたアンティークが三井の、そしてこの建物の歴史ば語りかけとる。炭都・大牟田の象徴ていうてもウソじゃなか。

 現在も結婚式場やレストランとして営業しよんなる。レストランは本格的なコース料理のほかにも手軽なランチやら喫茶メニューもあるケン、見学がてらコーヒーでも飲みにいってみんね。

 スーパーの食堂よりはちょっと高かバッテン、高かもんは食わんのきゃあよかっちゃケン、当時のままていう建具やら家具、また収蔵されとる美術品も見ておいて損はせんバイ。

上左・正門から見た倶楽部の建物。玄関は建物の向かって右手にある。
上右・敷地内に三井でいちばん古か大浦坑の碑がある。大浦坑は、安政4年(1857)からあった炭鉱で、官営化後、初めて近代技術によって開かれた炭坑タイ。
大正15年(1926)2月に閉坑したとバッテン、團琢磨が残しとったこの碑ばここに移築したとゲナ。碑文は達筆でむづかしゅうて簡単には読めん。
左・玄関に飾ってあった記念の木製プレート。なんの記念かいうたら、昭和37年(1962)に日産15,000トン出炭したことに感謝してのもんやった。

写真上は全部・贅沢三昧に作った部屋の内装と調度品。コーヒー一杯だけで、これ見て帰るだけでもよかバイ。

右・三井三池争議のとき、労使が激しゅうぶっつかり合うた三川坑の正門跡。横の守衛室もいまは廃屋になってしもうとった。炭塵爆発事故もここやった。

下の3枚・衝立の葡萄の飾りやら、コリに凝った調度品などは、ほぼ当時のまま残されとるゲナ。
部屋にはそれぞれに名前がついとって、それが全部三池炭坑が経営しとる坑口の名前やった。

物好きな駅長はトイレまでこそーっと写真撮ってきたバッテン、いくらなんでもトイレまでは出されん。

 場所・大牟田市。大牟田市内ば貫通する国道208号線の「八江町」信号を西(海側)へ曲がる。鹿児島本線の陸橋ばくぐり三川橋ば渡る。「三川町1丁目」信号直進。続いて50mで「三池港入口」信号を直進50mで道は二股に分かれるから真っ直ぐの右をとり、すぐに右折して右手。                    取材日 2008.04.15

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