そればいつ人間が見つけたと ?
むかしから、神功皇后、弘法大師の時代にさかのぼってまで、さまざまな伝説やら古文書にでてきとるバッテン、確かなもんじゃなか。
最も古かて思われるものは、三池地方で発見されたていう、この話。
文明元年(1469)、三池郡稲荷村(とうかむら。現在の大牟田)の百姓伝治左衛門いうとが、夫婦で近くの稲荷山にたきぎば採りに行ってクサ、枯枝ば集めて火ばつけたところが、近くにあった黒か岩がトロトロて燃え出したとゲナ。
これば見て夫婦は運が開けてきたて喜び、しばらく天ば拝み、地ば撫でたていう。
これが「燃える石」ていわれ、それからこの附近の村人たちは、この黒か石ば薪やら炭のかわりに燃料として使うごとなったていう。
室町時代のなか頃に、北九州市八幡西区の香月地区住民が石炭ば発見し、薪より効率のよか燃料として使うごとなったていう話もある。
江戸時代中期(1700年代)には、塩ば作る燃料として石炭ば使い始め、当時の小倉藩と福岡藩は採掘・輸送・販売ば藩の直轄で管理し、いっしょうけんめい炭鉱の開発ば進めとったていう。
藩にとって石炭は、今のイランの石油のごとよか収入やったに違いなか。
近代になって、産業革命以後20世紀初頭までは、最重要の燃料として「黒ダイヤ」「黒いダイヤ」「黒の宝石」などと呼ばれとった。
ところが、第一次世界大戦前後から、石炭の2倍のエネルギーば持つ石油に切り替わり、中東で大量の石油が採掘されるごとなって、1バレル1ドルの時代ば迎えると、いっきょに石油の導入が進み、採掘条件の悪か炭鉱は廃れてしもうた。こればエネルギー革命ていう。
三池炭坑いうとは、福岡県大牟田市・三池郡高田町(現・みやま市)と、熊本県荒尾市に坑口ば持っとった炭鉱で、江戸時代から採掘が行われよったとバッテン、明治22年(1889)明治政府から三井財閥に払い下げられた。
以来、戦前・戦中・戦後ば通して、日本の近代化ば支えてきた存在やったとやが、昭和35年(1960) 石炭産業の斜陽化で、労働者の大量解雇ばしたもんやケン、激しか労働争議に発展した。これば三池争議ていう。
昭和35年(1963)11月9日には、三川鉱で炭じん爆発があり458人が死亡、一酸化炭素中毒患者839人ば出すという大事故として報道された。
昭和59年(1984)1月18日 今度は有明鉱坑内で火災事故が発生、83人もの人が犠牲になった。
日本の炭鉱は、世界トップクラスの生産効率と保安設備ば誇っとったバッテン、ひとたび事故・災害が発生すると多くの人命ば奪い、後遺障害ば持つ患者ばうんと出してしまう。
さらに、事故・災害の莫大な補償費用は炭鉱ば経営する鉱山会社の企業体力ば徐々に奪っていってしもうた。
平成9年(1997)3月30日 ついに三池炭鉱も閉山。
筑豊もいっしょで、全盛ば誇っとった九州の石炭産業はここでしまえた。
炭鉱関連の遺産はあちこちにうんと残っとって、近代化遺産(産業遺産)の面からも注目されとった。
平成27年(2015) ユネスコの世界遺産リストに記載せんねていう勧告がなされ、同年7月の第39回世界遺産委員会で世界文化遺産としての登録が決定した。
「明治日本の産業革命遺産」の 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の23構成資産のなかには、三池炭鉱宮原(みやのはら)坑・万田(まんだ)坑も含まれとった。
そしてこれらは、今年(2015)、ユネスコ世界文化遺産として正式に決定した。
決定した途端、それまでは見向きもされんやった遺跡に人が押し寄せるようになり、市も観光効果ばめざして映画ば作ったり、報道に力入れたりガイドば置いたり、ころっと態度が変わった。市民団体の動きも活発になってきた。
駅長はそうなる前から、こらあ値打ちのあるバイ。今のうちに記録しとこう、てあっちこっち歩き回ってカメラに納めとった。
遠回りしたバッテン、やっと宮原坑にきた。
明治22年(1889)、明治政府から三井に払い下げられた三池炭鉱で、最初に開発された坑口が宮原坑やった。
明治27年(1894)、勝立坑(かっだちこう)の排水に成功した三池炭鉱は、宮原と万田付近に新坑ば掘削し、明治31年(1898)に宮原坑第一竪坑(主に揚炭・入気)、明治34年(1901)に第二竪坑(主に人員の昇降・排気)ば完成させた。
今残っとる第二竪坑の櫓は、高さ22m、イギリスから輸入された鋼材ば使用し、2基のケージ(昇降機)ば備えとった。当初は蒸気で動かしとったバッテン、後に電動モーターに切り替えとる。
いまあるモーターは昭和8(1933)年製のもんで、万田坑から持ってきたものていう。レンガ造の巻室は一見平屋建てのように見えるバッテン、1階部分は埋め殺して巻胴のアンカー(基礎)となっとる。このほかデビーポンプ室の壁の一部が残っとる
勝立坑(かっだちこう)
さあ、ここで今出てきた勝立坑とデビーポンプにつてい知っとかんと炭鉱は分からん。
まず勝立坑いうとは明治28年(1898)から昭和3年(1928)にかけて活動した三池の主力坑のひとつで、いまの大牟田市勝立町にあった。
勝立坑には第一竪坑と第二竪坑の二つの坑口があったとバッテン、第一竪坑の関連施設は無うなってしもうて第二竪坑もコンクリート造の櫓基礎が残るだけ。
残っとれば当然今回の登録にはいっとる重要な遺産やけど、可哀相に放置されたままで誰も知らんし振り向かん。
勝立坑は官営時代の明治18年(1885)に竪坑の開鑿工事が着手されたとバッテン、工事開始以来、湧水に悩まされ続け、三井に経営が移った後も工事はなかなか進まんやった。
しかも、明治22年(1889)7月28日深夜には熊本ば中心とする大地震に見舞われ、それまでに深度95mまで掘っとった竪坑は、地震の湧水で水没してしもうた。
当時、竪坑の排水ばするために、大型ポンプ12台が運転中やったとやけど、地震後の激しか出水には対処できず、結局これらのポンプも全部が水没してしもうた。
事態ば打開するため、採用されたとが英国製のデビーポンプていうとタイ。
デビーポンプはそれまでのポンプと違うて、原動力の蒸気機関は坑外に据えたまま、坑底の押し上げポンプば動かす構造やった。これなら坑底が水没して放棄することになっても失うのは安か押上ポンプだけですむ。
明治26年(1893)5月から運転が開始され、10月には坑底まで水ばくみ上げてしもうた。掘鑿が再開され、翌年3月には出炭しとる。
宮原坑の話に戻る。
宮原坑は明治から大正にかけて年間40万トンから50万トンの石炭を掘り出しとった。その生産性の高さで有名やったとバッテン、そのウラには厳しか労働環境があった。
もともと宮原坑は、近くにあった三池集治監(しゅうじかん・いまでいう刑務所)に収監されとった囚人の労働力ば利用するためにつくられたものやった。そやケン、厳しかとは当たり前タイ。囚人たちからは、その厳しか労働から「修羅坑」て恐れられとった。
今回の登録についても、韓国政府は「推薦される遺産には朝鮮半島の人々が強制的に徴用され、働かされたつらい歴史が刻まれとるケン、世界遺産の理念には合わん」いうて、登録ば邪魔した。
ま、実際、造船所や工場など7か所で戦時中、5万7000人の朝鮮半島出身者が強制徴用され、働かされたとはほんなことやろう。
↑ 宮原坑跡は大牟田市の「築町」信号ば左斜めに入るとわかり
やすか。
←↓ この撮影は2008年、世界遺産登録なんていうハナシがなかった頃のもん。それでもチャンと塗装して大切に保存されとった。
どっかの市の蒸気機関車の保存は、これば見習わないかんバイ。