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あんまり煙突が高いのでさぞやお月さん煙たかろ   「福岡県」の目次へ
ユネスコ登録 明治日本の産業革命遺産                   

 宮浦坑(みやうらこう)の話ば始める前に、三井三池炭鉱(みついみいけ たんこう)の話からせないかん。三池炭坑の話ばするとなら、日本の石炭の話からせなならん。

石炭(せきたん、coal)いうとは、古代の植物がクサ、完全に腐敗して分解する前に地中に埋もれ、そこで長いあいだ地球の熱やら圧力ば受けて変質(石炭化)してでけたもの。見方ば変えれば植物の化石タイ。

 そればいつ人間が見つけたと ?
 むかしから、神功皇后、弘法大師の時代にさかのぼってまで、さまざまな伝説やら古文書にでてきとるバッテン、確かなもんじゃなか。

最も古かて思われるものは、三池地方で発見されたていう、この話。

 文明元年(1469)、三池郡稲荷村(とうかむら。現在の大牟田)の百姓伝治左衛門いうとが、夫婦で近くの稲荷山にたきぎば採りに行ってクサ、枯枝ば集めて火ばつけたところが、近くにあった黒か岩がトロトロて燃え出したとゲナ。

 これば見て夫婦は運が開けてきたて喜び、しばらく天ば拝み、地ば撫でたていう。

 これが
「燃える石」ていわれ、それからこの附近の村人たちは、この黒か石ば薪やら炭のかわりに燃料として使うごとなったていう。

 室町時代のなか頃に、北九州市八幡西区の香月地区住民が石炭ば発見し、薪より効率のよか燃料として使うごとなったていう話もある。

 江戸時代中期(1700年代)には、塩ば作る燃料として石炭ば使い始め、当時の小倉藩と福岡藩は採掘・輸送・販売ば藩の直轄で管理し、一生懸命に炭鉱の開発ば進めとったていう。

 藩にとって石炭は、今のイランの石油のごとよか収入やったに違いなか。

 宮浦坑は明治20年(1887)に開坑した三池炭鉱の主力坑の一つ。昭和43年(1968)の閉坑までの81年間、約4000万トンの石炭ば産出した。いまも残る煙突は、明治21年(1888)建造の高さ31.2m、上部直径2.9m、基部直径4.3mで、耐火赤レンガ約138,000枚が使用されとるていう。
平成10年に国登録指定文化財(建造物)として登録された。
いまは
宮浦石炭記念公園になっとる宮浦坑の跡に毅然として立っとる。

 この煙突は「炭坑節」に歌われたモデルとも言われとる。石炭全盛期、宮原坑や万田坑など大牟田の各竪坑にそびえ立っとった煙突のうち残されとるとはここだけ。

 宮浦大斜坑は、地上から石炭の層に行くまでの斜めのトンネルで、大正13年(1924年)から平成2年(1990年)まで、坑内で働く人や採炭資材などの出入口として使用された。
 また、人車などは巻揚機のワイヤーロープで動き、掘出された石炭もここから運び出された。

 いまは宮浦石炭記念公園として整備され、面積は0.47ha。平成8年(1996)11月に開園した。
自由に見学することができる。


 この煙突は、竪坑捲揚機の動力源であったボイラーの排煙に使われとったもの。かつて宮浦坑には赤レンガの煙突は3本あったて言われとるバッテン、現在はそのうちの一本だけが修復保存されている。

 宮浦斜坑の長さは1,020m、深さ180m。坑口の大きさは幅5.61、高さ2.12mやった。 現在、坑口は封鎖されとる。

 昭和38年(1963)11月9日に発生した三川坑炭塵爆発事故は、炭塵による粉塵爆発事故で、死者458名、一酸化炭素中毒患者839名ば出し、戦後最悪の炭鉱事故て言われとる。
事故での死体はこの宮浦坑の坑口から上げられた。その後、原山町の三井三池炭鉱本社の講堂に移送収容されたていう。

       宮浦石炭記念公園

 場所・大牟田市西宮浦町132-8。九州自動車道の南関ICば下りて、県道10号線ば西へ約8Kmで国道208号線「元村」の信号。左折して国道208号線ば鹿児島島本線に沿うて南下。約8Kmの大牟田市「築町」信号で斜めに左折。県道3号線ば約600mで「上町2丁目」信号ば左折。300mの「西宮浦」信号ば右折すれば、100mで左。 取材日 2008.04.14

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