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三女神が天降った             「福岡県」の目次へ
国宝・世界遺産                                         

 宗像は「古事記」では胸形ていう字が当てられ、また胸肩、宗形とも書かれとるバッテン、もとは水潟やった。

 古くからここの氏神として信仰ば集めとったけど、神功皇后が三韓征伐の時ここに航海の安全ば祈り霊験があったもんやケン、大和朝廷から大事にされるごとなった。またこの話から航海安全の守護神として崇められるごとなった。

 律令制が導入され、国郡制が布かれると宗像一郡が神領として与えられ、当地の豪族宗形氏が神主として神社に奉仕し、神郡の行政も司るごとなった。

 宗形氏の由緒ば記した石碑によれば、宗形徳善は娘の尼子娘ば天武天皇の後宮に入れ、白雉5年(654)に二人の間に生まれた第一皇子高市皇子は、壬申の乱で父ば助けて功績ば挙げ、のちに太政大臣に任ぜられたていう。

 鎌倉時代以降、宗形氏の後身で大宮司家の地位ば世襲しとった宗像氏が領主になっとったけど、戦国時代には大内氏・大友氏・少弐氏など近隣の大名同士の戦争に動員され、宗像大社も軍事攻撃の対象となってたびたび放火・破壊ば受け、宗像氏も衰退していってしもうた。

 バッテン、そのつど朝廷やら武家の後押しがあり再建ば繰り返してきた。

 宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。旧社格は官幣大社やった。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神ば祀る神社の総本社。

 伊勢神宮(おおひるめのむち)、出雲大社(おおなむち)と並んで裏伊勢ても云われとる。

 平成29年(2017)「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群のひとつとして、
世界文化遺産に登録された。

 伝えられる伝承では日本神話に、天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)の時、天照大神が素戔嗚尊の剣ば噛み砕き、プッと吹き出した破片から生まれたとが宗像三女神ていう。

 彼女たちは天照大神の神勅ば奉じて、皇孫のニニギノミコトば見守り助けるため、玄界灘に近か
六ケ岳に天降り、筑紫宗像の島々に分かれて、この地ば治めるようになった。これが宗像大社の起源ていう。

 沖津宮のある海上交通の要所に位置する沖ノ島は、古来より島に立ち入り見聞きしたことば口外してはならず「お不言さま(おいわずさま)」て呼ばれ、島全体が御神体やった。

 そのため現在でも女人禁制で、これが男女差別だと言われることもあるバッテン、これは島の神が女の神様(田心姫神)やケン、女性が島に上陸すると嫉妬され祟りがあるて云われて来た。男性であっても上陸前には禊ばしてからでないと島には上陸でけん。

 昭和29年以来十数年にわたり沖ノ島の発掘調査が行われ、4世紀から9世紀までの古代祭祀遺構やら装飾品など大量の祭祀遺物が出た。この他に縄文時代から弥生時代にかけての石器や土器などの遺物も発見された。

 このことから、沖ノ島は俗に「海の正倉院」と呼ばれとり、有史以前の古代から海人族らの信仰の対象とされとったことが偲ばれる。

 エジプト考古学者の吉村作治氏が提唱し、沖ノ島および宗像地域の祭祀遺跡などば世界遺産にする運動が起こり、平成21年(2009)に「沖津宮・中津宮・辺津宮」および「沖津宮遥拝所と沖ノ島全体」ば含めて、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として世界遺産の暫定リストに登録され、平成25年(2015)には推薦候補となり、平成29年(2017)7月、ポーランドクラクフでのユネスコ世界遺産委員会で、正式世界遺産に登録された。

 宗像大社は、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮(総社)三社の総称やけど、現在では「辺津宮」のみば指す場合が多い。

福岡県宗像市田島にあるとが辺津宮(へつぐう)で市杵島姫神(いちきしまひめ)
福岡県宗像市大島が中津宮(なかつぐう)で
湍津姫神(たぎつひめ)
福岡県宗像市大島沖之島が、沖津宮(おきつぐう)で
田心姫神(たごりひめ)

 
地図上で辺津宮から11km離れた筑前大島には中津宮があり、さらに49km離れた沖津宮ば線で結ぶと、その直線上には145km離れた朝鮮半島釜山がある。古代から大陸と半島の政治、経済、文化の海上路やった。

 こけら葺きの大屋根が美しか現在の辺津宮本殿は、天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞が再建、辺津宮拝殿は、筑前領主やった小早川隆景によって天正16年(1590)に再建されとる。
 辺津宮の本殿拝殿ともに国の
重要文化財に指定されている。

 江戸時代には筑前福岡藩主黒田氏などによる社殿の造営・修理、社領の寄進などが度々なされた記録がある。

 明治の廃仏毀釈により神宮寺やった屏風山鎮国寺は大社から切り離され、昭和の第二次世界大戦の後、荒廃しとったとば、境内は赤間(宗像市赤間地区)出身で、幼い頃から宗像大社ば崇敬しとった実業家、出光佐三の寄進により整備されたていう。

 古くからは海上・海上交通の神として信仰されとったバッテン、現在では海上に限らず、交通安全の神として信仰ば集めとる。

 そのため、福岡県やその周辺では宗像大社のステッカーば貼った自動車が多数見受けられるほか、新車ば購入したらここで安全祈願の御祓いば受ける人も多か。また、車につける交通安全のお守りは宗像大社が日本で最初にはじめたとゲナ。

宗像大社辺津宮
本殿(第一宮、イチキシマヒメば御祭神とする。宗像氏貞の建立で、中津宮の本殿を参考にしたていわれる。重文)
拝殿(切妻屋根、宗像宮の額がかかる。小早川隆景の建立。重文)
第二宮(沖津宮分社、タゴリヒメを御祭神とする。)
第三宮(中津宮分社、タギツヒメを御祭神とする。)

宗像大社中津宮
本殿は宗像氏貞の建立。屋根の千木は陰陽道の影響がみられる。昔の吉田神道では宗像神社を特別な神社とみていた影響とも言われる。辺津宮本殿よりも前の建立でモデルとされたとする説もある。
切妻屋根の拝殿は福岡藩主黒田氏の再建。

宗像大社沖津宮
社殿は三宮の社殿では一番小さく、屋根が巨岩にめり込むごと建てられとる。
沖津宮遙拝所 遥拝殿 は彼方に御神体島の沖ノ島と沖津宮ば拝む銅板葺き破風つきの社殿。福岡藩主黒田氏の寄進。

 昭和58年(1983)皇太子明仁親王(現在の今上天皇)と美智子同妃(現在の皇后)が辺津宮へ参拝しなった。

 平成25年(2013)皇太子徳仁親王が辺津宮へ参拝しなった。

 平成29年(2017)今上天皇・皇后が、歴代の天皇・皇后として初めて辺津宮へ親拝しなった。

国宝指定
 福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品・伝福岡県宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品 一括。玄界灘に浮かぶ絶海の孤島・沖ノ島の20数箇所の祭祀遺跡から発掘された一括遺物。

 昭和29年(1954)から昭和46年(1971)に至る第1次〜第3次の発掘調査で出土したもので、時代的には古墳時代から平安時代(4世紀〜10世紀)にわたものが、昭和37年(1962)に国宝に指定され、平成15年(2003)には第3次発掘調査出土品が追加指定されとる。

 考古学、美術史、宗教史、古代史など、さまざまな分野の研究に役立つところが多か、学術的にきわめて貴重な資料。約8万点に及ぶ一括遺物の国宝としては、数の上では日本一。

重要文化財
 
宗像神社辺津宮拝殿 宗像神社辺津宮本殿 木造狛犬一対 石造狛犬一対
藍韋威肩白胴丸 兜、壺袖付(あいかわおどしかたじろどうまる)-「胴丸」は鎧の一種。
 経石(正面阿弥陀如来像・背面阿弥陀経)(阿弥陀仏経碑)
 宗像神社文書 12巻 附:宗像神社記録5巻、1冊、宗像社家文書惣目録 1冊
色定法師一筆一切経 4342巻[3] 自文治三年(1187年)至嘉禄三年(1227年)奥書(宗像市田島 興聖寺所有、宗像大社管理)
 滑石製経筒 仁平4年銘(宗像市稲元区所有、宗像大社管理)

国指定史跡 
 宗像神社境内

福岡県指定有形文化財 
 宗像神社中津宮本殿
  六ケ岳

 宗像三女神が降り立ったていう伝説の六ヶ岳には、旭岳・高祖・天冠・崎門・出穂・羽衣ていう大小六つのピークがある。
 しかし、残念ながらこれらのピークば結ぶ登山ルートはなか。この中で主峰の旭岳が一般に「六ヶ岳」と呼ばれとる

 標高わずか338.9mの低山バッテン、別名「鞍手富士」て云われるだけあって、周りの  山並みや、はるか玄海灘までも見渡せる。

← 2004.3.19に駅長も六ケ岳に天降った。
 テッペンには藁小屋がひとつと、大きなアンテナが立っとった。

 場所・福岡県宗像市田島2331。六ケ岳は福岡県宮若市龍徳。大社へは天神北から福岡都市高速で終点の「香椎東」まで8km。降りたらそのまま県道533号線で北へ20km走り、宗像市「神湊」信号で右折。県道69号線を2kmで宗像大社に到着。 取材日 2013.2.20

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