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なんちゅうたっちゃ石造りの山門がよか       「大分県」の目次へ
豊後大野市指定文化財

 豊後大野市の犬飼から、国道326号線ばすこうし南下したところに白鹿山(はくろうさん)ていう266.6mの山がある。

 その中腹にあるとが臨済宗妙心寺派の禅寺、白鹿山妙覚寺。

 山の方は「はくろうさん」バッテン、寺の山号は「はくろくさん みょう かくじ」

 白鹿のことが記録にあらわれるとは「日本後紀」の巻十に「延暦21年(802)8月、豊後の国より白鹿を献ずるものあり、獲りしものに稲五百束を賜う」て出てくる。

 『豊後国誌』には、白鹿が捕れたのはこの白鹿山やったて書かれとる。


長崎やったら、これだけでもおおぎょうに宣伝して人ば呼ぶやろうバッテン、大分は素朴いうか地味ていうか、控えめいうか、自然のままで知る人も少なか。

 妙覚寺の創立はハッキリ分からんバッテン、寺の再興は宝暦年間(1751〜63)で文丕黙(もんひ もく)禅師がしなったらしか。

 黙禅師いうたら、菅尾石仏の向かいの岸壁に彫られたバカでかい「南無阿弥陀佛」の文字、これば彫ったとがこの坊さんタイ。宝暦4年(1754)ていうケン、もう250年も前の話。

 そういうて見れば、ちょっとチャイナ風の山門の文字も、なんか菅生のに似とるごたぁる。

 
この黙禅師の他に、妙覚寺におんなったとが虎関(こかん)ていう和尚で、虎関禅師は、晩年大本山の妙心寺で修行しよんなったとバッテン、帰郷後、岡藩主の意に沿わんやったいうことで罰せられ、藩主の菩提寺、碧雲寺(へきうんじ)に戻れんでクサ、妙覚寺に隠居させられとんなったとゲナ。

 文人やった禅師は、風光明媚なこの白鹿山の地が気に入っとって、寺に文人墨客ば迎えては、日々詩ば読み書画ば楽しんどんなったていう。

「良くみれば及ばぬことの多かりき 蓑きてくらせ己が心に」
 なんか聞いたことあるフレーズやが、これが虎関和尚の詩ていう。

鐘ヶ渕」伝説
 
大野川は白鹿山の麓近くで、ごつごつとした巨岩に覆われ「龍が伏する如く」ていわれる瀬がある。

 そこは川幅が極端に狭まっとって水が滝のごと流れ下っとる。この荒々しか岩場の川下に、青々と水ばたたえる深みがある。人呼んで「鐘ヶ淵」

 祖母山の大蛇に子があった。大蛇の子は母のもとば離れ、川下の白鹿山に住むごとなったとバッテン、母のことが忘れられんで毎日寂しがっとった。

 ところがある日のこと、白鹿山妙覚寺の夕べの鐘が鳴り始めた途端、大蛇が急に気が狂うたごと、激しゅうたけり狂い、いっきに鐘楼へと巻き上がって、鉄の鎖ばくい切ってしもうた。
 鎖の切れた鐘は、大蛇の子とともに、もんどり打って真っ暗な鐘ケ渕さい落ちていった。

 遠くから祖母山の大蛇が我が子ば慰める声がした。「祖母山の谷川は、ずうっと、あんたの渕へつながっとる。これからは村人ば水難からも守らないかんとよ」

 鐘楼はもうなかバッテン、白鹿山からは大野川ば眼下に見下ろすことが出来る。蛇が鐘もろとも、もんどり打って落ちた場所は急な崖になって残っとる。

 蛇は水神ケン、この話、大野川ていう豊かな水の恵みが、祖母山のお陰とする、古代からの信仰が投影されとるて地元の人達は云う。

 詩の右肩に「賜紫衣」て書かれとるケン、宮中から僧侶の最高の栄誉である紫の衣ば貰いなったっちゃろう。この墨蹟の掛け軸は、犬飼町柴北の同じ禅寺・慧日山大聖寺に保存されとる。いまの妙覚寺はこの大聖寺の末寺(まつじ)いうことになっとって小笠原常子さんが守っとんなさる。

菅尾石仏の岸壁文字。この豪快さは妙覚寺山門と共通しとる。2000.5.7撮影。

左・参道の石段から





右・境内はきれいに掃除がいきとどいとる。








右・梵字が彫られた由緒ありげな一対の石灯篭






右・寺の造りは普通のおうちバッテン、お庭は流石


右・登り口の門柱









左・山門の石と漆喰と木の取り合わせがヨカ











左・白萩が満開やった

 場所・ 豊後大野市千歳町大字柴山 大分自動車道ば大分米良ICで下りて約15kmの犬飼まで南下する。「久原」信号で右折して犬飼大橋ば渡り豊肥線ば越したらすぐに「下津尾」信号で左折。国道326号線ば約1.5km南下高松橋手前の信号を右折。豊肥線ば右に大野川ば左に南下。途中で豊肥線ば踏み切って、どちらも左手になる。信号から約5kmで右折、1kmの都筑紡績手前でまた右折。400mで右に寺への登り口がある。          取材日 2008.09.04

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