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美しか砂浜に100年前の日露戦争遺物         「長崎県」の目次へ
戦争遺跡

 大イチョウのある琴(きん)から海岸沿いば約4キロ北に走ったら、白砂のきれいな海岸がある。

 
茂木海水浴場ていう。景色も水も汚れとらんで、九州本土では見られんくらい美しか。流石に対馬て感心させられる。トイレ、シャワ ー、公衆電話などもあってよう整備されとる。

 休憩所近くにお目当ての大砲と記念碑があった。良うは読めんバッテン、「義勇奉公・・大正7年5月27日・・日本海大戦 ・・」て書いてある。

 ここで時間は100年も昔にさかのぼる。

 明治38年(1905)5月27〜28日の両日に、ここ茂木浜沖でおこなわれた日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊から、当時世界最強の艦隊といわれとったロシアのバルチ ック艦隊のナヒモフ号いうとが撃沈された。

 このアドミラル・ナヒモフ号(8524トン)いうとは、1853年からのクリミア戦争で活躍したナヒモフ提督から名ば取った装甲巡洋艦で、1887年に進水した船やった。

 日本との海戦に加わるためバルト海のリボフ港ば出港する時、軍資金として英金貨2000万ポンドが積まれとったらしか。日本円なら8000億とも8兆円ともいわれとる。

 日本海海戦でのナヒモフ号は、バルチック艦隊司令長官のロジャストウインスキー提督が降伏した後も、日本の降伏勧告ば断って、日本艦隊にたったの一隻で囲まれたとバッテン、勇敢に最後まで交戦して撃沈させられとうとタイ。そやけん、大量の金塊ば積んどったとやろう、ていう噂が立って、昭和40年代にその金塊探しが話題となった。

引き上げられた口径20cmのナヒモフ号艦載砲(上)と美しか茂木浜の砂浜(下)

 昭和55年(1980)になって、ナヒモフ号の沈没場所が対馬の琴崎沖南南東9.6キロの、水深93メートルてわかったもんやケン、日本海洋開発ていう会社がクサ、90人ば投入しての潜水調査ば始めた。

 引き揚げ費用30億円のスポンサーは誰かいうたら、競艇の親分・日本船舶振興会の笹川良一会長タイ。

 なぜ笹川会長が私財ば投じてまでナヒモフ号の財宝にこだわったかていうと、勿論欲の皮もつっぱっとったろうバッテン、世界の視線ば
北方領土問題に向けさせようていう考えがあったらしか。

 北方領土いうたら、日本古来の領土やったとバッテン、日本が太平洋戦争に負けた昭和20年(1945) ソ連軍が占領したままになっとった。

そして現在に至るまで戦後60年以上にわたってロシアが実効支配ば続けとって、解決はしとらん。

 笹川会長は、もしナヒモフ号の財宝がほんなことい引き揚げられたら、ソ連は必ず「そらあオレんとこのもんやケン、返しやい」て要求してくるに違いなか、て思うとった。
 しかし、ナヒモフ号は日本の戦利品ケン、引き揚げたもんが所有者タイ。

 ナヒモフ号の財宝ば返せていうとなら、その代わり「日本から取り上げたままになっとる北方領土ば返しちゃりやい」て交換するつもりやった。

 その構想は立派なもんやったとバッテン、物事はそううまくはいかんタイ。

 笹川会長が多額の私財ば投入したナヒモフ号から引き揚げられたもんは・・・・・。
「バラストに使われた鉛とプラチナのインゴット1個やった」ていう記者会見で、引き揚げ作業は幕となった。

 ところがタイ。なんにでもウラがあるもんで、引き揚げ作業ば取材した通信社によると「実は金塊が揚がっとったらしかゲナ」
 なしかていうたら、当時財宝探しに潜っとったダイバーたちが、のちに外国車ば乗りまわすほど羽振りのようなったけんタイ。

 バッテン、今になってみればもう真偽のほどは闇の中、真実ば確かめる術はなか。

 ただ、財宝探しで引き上げられたナヒモフ号の大砲は、上対馬町に寄付されて、この茂木浜に置かれとるいう訳タイ。

 ナヒモフ号に関しては、人類愛の美談が残っとる。
 ここの沖合10キロぐらいのとこで沈められたナヒモフ号の水兵たち143名は、救命ボートでよろよろしながら、ここの砂浜に上陸したとゲナ。

 島の人たちは、初めて見る大きなロシア人にたまがっもんの、この傷ついた水兵たちば水の湧き出す泉へ連れて行ったり、民家に分宿させたりして、手厚く看護してやったていう。

 祖国ば応援しながらも、目の前の哀れな敗残兵たちば助けなおられんやったとは、人間としての心の暖かさタイ。島人(しまびと)の素朴さがうかがえる話じゃなかね。

 朽ち果てたナヒモフ号の大砲ば見て、海底に沈んだロシアの財宝の話やら思い出しよったら、なんかロマンが一杯バッテン、それよりも、島人のこげな話のほうがよっぽど胸ば打つ。

上・観光情報によると、保存の程度はよかていうことやったバッテン、行ってみたらやっぱあもう、だいぶん腐食しかかっとった。
 そらそうやろう、海の中に70年以上も沈んどって、引き上げられてからでも30年近う経っとるとやもん。
下・大砲は自分が沈んどった対馬海峡の方ば向いて座っとった。


琴(きん)の大銀杏

「琴の銀杏の木は対馬の親木」と地つき唄に唄われ、文化6年(1809)に書かれた対馬記事によれば 「沖より見れば茂りて山のごとし」て書かれてとる。

 胸高直径12.5mは岩手県長泉寺の大イチョウの14mに次いで全国2位ゲナ。

 イチョウは大陸系の植物やケン、その伝ったルートから考えたら、日本最古のイチョウじゃあなかろうか。言い伝えられとる樹齢1500年ていうとも「なあるほど」て納得させられる。

 寛政10年(1798)に落雷で幹が裂け中が焼けてしもうて空洞になっとったとが、昭和25年のキジア台風でヤラレて主木が倒れてしもうた。

 バッテン、しぶとか生命力で、その横から子木が伸びてクサ、いまではまた大きゅう枝ば張っとると。

 春には枝いっぱいの葉ばつけ、秋には黄葉し、晩秋になると、ちょっとオーバーな表現とは思うバッテン、小判でも散らすごと落葉するゲナ。

 場所・長崎県対馬市上対馬町。対馬空港から国道382号線ば約34km北上して、峰町の「大久保」信号から右折。県道48号線ば4kmで県道39号線に入る。対馬の東海岸ば約10kmで「琴」 スタンドの先で右折して琴漁港ば回って約4kmの突き当たりが茂木海水浴場。                         取材日 2008.10.15

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