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100年も見とれば天神も変わりましたバイ      「福岡県」の目次へ
  

 天下分け目の「関ヶ原」で、危なかった徳川家康は、豊前中津、たった禄高18万石の黒田長政に助けられて、天下ば取った。

 長政の功績は何やったかていえば、松尾山に15,600人で陣取っとった弱冠19才の西軍の将、小早川秀秋ば、徳川に寝返らせたこっタイ。

 秀秋の裏切りで、戦いの行方は決まった。


 秀秋いうとは、秀吉の正室・高台院の兄の5男として生まれ、11才の時に秀吉の命令でクサ、小早川隆景(たかかげ)の養子にやられとった。隆景が隠居した後、筑前名島城主として、筑前・筑後・肥前の一部ば領して、30万7千石の大名になっとった。

 
30万石は貰うとるバッテン、秀吉から厄介払いされたと思うとるし、秀吉ば決してようは思うとらん男やった。
 ここに、長政がつけ込んで、ギリギリの場で寝返らせた訳タイ。

 関ヶ原の合戦が終わった後、論功行賞の場では、家康が長政の手ば押し頂いて「あんたのために勝てた。この恩に報いるため、こんごいっさい黒田家ば粗略には扱わん」いうて、筑前52万石ば差し出した。
 そんくらい長政の働きは殊勲甲やったとタイ。

 この話ば帰ってきた長政が、オヤジの如水(もなか屋の如水庵じゃなかバイ)にしたところが、如水いわく「家康がお前の手ば押し頂いたとき、お前の左手はなんで遊んどったとや、バカチン」ておごったゲナ。

 如水にも天下取りの欲望があったケン、なんでそのスキば突いて、家康ば殺さんやったとかて、叱ったとたい。戦国時代ちゃ油断も隙もならんねえ。

 その黒田長政が、舞鶴城ば作って、中津から田舎モンの家来達やら職人達ば連れて来たことで、福岡と博多の双子都市ができた訳よ。

 それまでは舞鶴城の辺りば博多て云いよったとい、長政は博多のもんば那珂川の東に追い出して、
城下町は自分の出身地の福岡ば名乗り、中津からついてきた武士やら商人やら職人ば、城の近くに住まわせとうとタイ。

 いまでこそ、博多・福岡の差別意識はなかバッテン、江戸期には、博多と福岡は明確に区分されてとったとバイ。駅長が子供の頃でさえ、博多の悪ガキは福岡の子供達ば「おぼっちゃま」いうてば馬鹿にしとったもん。

 その境界になっとったとが那珂川で、博多の町人はここにあった中島橋でしか福岡部に出入りでけんやったと。

 橋のたもとには10mもの石垣に守られた
枡形の門があって、警護の侍がいちいち出入りば検査しよったゲナ。

 前置きが長かったバッテン、その場所がクサ、
旧日本生命福岡支社、いま赤煉瓦文化館の建っとる天神1丁目タイ。

 皮肉なもんで、いま文化館の真ん前の橋のたもとに、福岡市道路元標ちゅうとの埋め込まれとって、北緯33度35分36秒。東経130度24分8秒のここが福岡市の基点になっとると。

 こっから東京までは1205kmゲナ。

 東から見た赤煉瓦文化館。右に昭和通りと新しく架け替わった西中島橋。

 博多のもんなら誰でも知っとるナゾナゾがある。

 「那珂川にかかっとる西中島橋に、博多のほうからひとりの虚無僧がやって来たゲナ。ふと橋の途中で立ち止まった虚無僧はクサ、いきなり懐から尺八ば取り出した」

 さあ、ここで問題
 「尺八ば取出したとは、なしてね?」

 答えは・・・ 
 「これから吹こうか(福岡)」

 虚無僧が分からんなら、茶髪のあんちゃんでもよかし、尺八ば知らんなら、トランペットでもヨカ。

 ようするに、ここが博多と福岡との唯一のポータル(出入り口)やったことが、分かって貰えばよかと。

 肝心の建物の話は「うっちょいて(ほったらかして)」場所の話ばっかりしよった。駅長の話はいっつもこげんありますとタイ。

 さて本題の建物やが、設計は明治時代の建築家辰野金吾工学博士と片岡安工学士ゲナ。もともと、日本生命保険株式会社九州支店とし明治42年(1909)2月に竣工しとるとタイ。

 ドームや小塔、屋根窓を配した銅板葺きの屋根は、19世紀末のクイーン・アン様式ともフレンチルネッサンス様式とも云われとるげなバッテン、建物の専門的なこたぁ駅長には分からん。

 ただ、赤煉瓦に白か花崗岩の帯ば装飾的に使うた外観の美しさだけは、誰にでも分かる。

 昭和44年(1969年)3月、国の重要文化財に指定されたケン、福岡市に譲渡され、歴史資料館となったあと、平成6年からは
赤煉瓦文化館として市民に親しまれてきた。平成14年には福岡市文学館ば開設して、福岡の文学に関する様々な情報ば収集して、市民に提供しよんなる。

 中央に高々と乗っとるドーム。明治から平成まで、空襲にも焼け残って福博の、いや天神・中州の移り変わりば見てきとる建物。こらあやっぱあ、福岡の貴重な遺産であることには間違いなかバイ。大事にせないかんねぇ。

 この美しか赤煉瓦の積み方は「イギリス積み」いうてクサ、
 一列目ば長辺ばっかりで並べたら、二列目は短辺ばっかりで並べる積みかタイ。
 これで交互に積んでいくと強か煉瓦壁のでけるとゲナ。博多弁では「レンガベエ」ていいよった。

 
赤煉瓦建築物の番付によると
 東の横綱が東京駅と北海道庁で、西が京都国立博物館と大阪公会堂。

 九州では、大刀洗の今村天主堂が大関 で、福岡市赤煉瓦文化館は小結ていうことになっとる。

 1階2階とも福岡市文学館の展示室・会議室で見学は無料。午前9時から午後9時まで開いとる。

ライトアップされた夜景ばみると、フレンチルネッサンス様式て云われとるデザインば赤煉瓦が引き立てて「こげなよかもんの福岡にあったっちゃろうか」ていうごと美しか。
1階には「カフェ・ロイド」ていう喫茶室もあって、ゆっくりとくつろげる。ひょっとしたらと思うてクサ「ロイドちゃなんね」て聞いてみたたら、たまがったやねぇ、若っかねぇちゃんが「ハロルド・ロイドからきとるとです」て、いいなった。
 「あんた、ハロルド・ロイドば知っとるとお」「逢うたことあ、ありまっせん」そらそうやろう。駅長も無声映画でしか見たこたあなかもん。

 ハロルド・ロイド。1890年代、チャーリー・チャップリンとハロルド・ロイドと、バスター・キートンの三人ば
「世界の三大喜劇王」ていいよった。ロイド眼鏡でも有名なロイドさんタイ。

 ロイド眼鏡いうたら、鶴田浩二の「町のサンドイッチマン」ていう歌詞にも出てくるタイ。
   
ロイド眼鏡に燕尾服 泣いたら燕が笑うだろ 涙出た時ゃ空をみろ
   サンドイッチマン サンドイッチマン おいらは街のおどけもの
   呆け笑顔で 今日もゆく
・・・・・・昭和28年、作詞・宮川哲夫、作曲・吉田 正、三人とも、もうとっくに死んだ。

 なんで九州遺産が、関ヶ原から始まって、街のサンドイッチマンまで脱線するとお。文句はメールで駅長にいうてよお。ええくそ、脱線ついでにもういっちょ。

 徳川に寝返った小早川秀秋。やっぱあ関ヶ原の(寝返った)手柄で、名島から岡山藩55万石に加増されたとバッテン、
関ヶ原の合戦からわずか2年後の1602年に狂い死にしてしもうた。享年21やったゲナ。子はおらず、小早川家は断絶。死因は、関ヶ原の戦いで「秀秋の寝返りによって討死した大谷刑部吉継の呪い」やろうていう説もある。

 長政は舞鶴城ば作るとき、もう要らんごとなったけんいうて、秀秋のおった名島城ば壊し、石ば運んできて使うた。これば
「名島引け」ていう。中島橋の門の石垣も「名島引け」で名島から持ってきた。

 この石垣の一部は、いまアクロス横の薬院新川で護岸用に使われとるケン、物好きなら見てみんしゃい。
 この石垣こそ九州遺産かも知れん。

 場所・福岡市中央区天神。天神の交差点から明治通りば東に歩いて5分。アクロスの前から左折して昭和通りの左角。
 ついでに云うたらおごられるバッテン、水鏡天満宮ば拝んで裏へ抜ければ近道。      取材日 2006.12.5

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