むかし、この場所は球磨川に面した山深か所で、その中に小さな祠があるだけやったらしか、それば相良一族が産宮として信仰し、寛永の初め山ば開き平坦な地にして、社殿が造られたていわれとる。
しかし、なし老神なのか ?
群馬県に老神温泉(おいがみおんせん)ていう温泉がある。
ここの開湯伝説によれば、赤城山の神の大蛇と、日光の男体山の神やった大ムカデがケンカして、やられた赤城山の神がこの温泉で傷ば治してから日光の神ば追い払うたていう。
こん時、神ば追い払うケン「追神」温泉て命名され、後に転じて「老神」温泉となった。ていうバッテン、これとは全然関係ナカごたる。
本殿は、茅葺きの覆屋に護られた正面三間の、球磨地方には珍しか入母屋造りで、正面、左右の三方に高欄つきの縁をめぐらせ、内陣には円柱が用いられとる。茅葺きの屋根の下に社殿てあるという変わった造りは「鞘堂(さやどう)」いうて、社殿が痛まん工夫タイ。
柱頭には禅宗様式の組み物、壁には花鳥の彫刻が施され、特に左右脇の間の虹梁に鬼が座り屋根ば支えとるいうとは珍しかし、優れた意匠でもあることから、昭和37年に県の重要文化財に、平成2年には国の重要文化財に指定されとると。
現在の本殿は、江戸時代のはじめの寛永5年(1628)、人吉藩主・相良20代長毎(ながつね)とその子・頼尚(よりなお)によって再興されたもの。
拝殿および神供所は、もともと茅葺きの鍵屋になっとったもんば、この時切り離したもの。
藩主の産宮として造営されたため、漆塗り、彩色を施した豪華な造りに加え、嵌め板など細部にこの地方特有の意匠が見られ、球磨地方ば代表する江戸時代前期の神社建築として価値が高っかとゲナ。
珍しかていえば八角形の石燈籠もそう。
神社の燈籠は普通は参道を挟んで一対で建てられるもんバッテン、この灯籠は参道の真ん中に建てられ、神域との結界ば表示する人吉球磨には例のない珍しか建て方。
京都、奈良の社寺に見られる燈籠の配置と同じいうことは、なんか理由があるハズ。
また、燈籠は四角、六角、円形の形式が多いけど、この燈籠は基礎から笠まですべて八角形。八角形の燈籠は青井阿蘇神社にも建立されとる。青井阿蘇神社は江戸時代の中期になると、神仏習合の信仰から吉田神道(よしだしんどう)の信仰形式に改められた、ていうケン、そのとき京都の吉田神道と関係の深か八角形の形式ば燈籠に用いたて推測されとる。
「駅長さんもし、吉田神道ちゃなんですな ? 」
「室町時代にクサ、京都吉田神社の神官吉田兼倶(よしだ かねとも)が始めた神道の一流派のこっタイ」
「なんか特徴のあったとですな ? 」
「それまで巾ば利かしとった伊勢神道に対抗する意図があって、室町幕府にも取り入り権勢ば拡大し、神道界の権威になろうとしたバッテン・・・」
「わかった駅長。その思惑がバレてしもうたとでっしょう ? 」
「そうかもしれん」
「そやけん燈籠も八角(発覚)タイ」
オチはようでたバッテン、ここんとこはなしか誰も分かるもんはおらん。
「奉寄進 板屋 寛延3年(1750) 庚午10月吉日」て銘文に彫ってあった。
家に帰っきて後で知ったとバッテン、同じ境内にある天満宮の建物には、西南戦争の弾痕が残っとるとゲナ。
明治10年3月20日、田原坂の戦いから後退した薩摩軍は再起しょうとして、4月20日、人吉に集結した。
しかし政府軍は徐々にその包囲網ば狭め、ついに6月1日に球磨川の北側の村山台地や、願成寺方面から人吉城や新町方面に向かって総攻撃ば開始した。
この天満宮は、もともと会館の東側に建てられとったケン、川北の政府軍から砲撃ばまともに受けたとらしか。
ここに移築した時に板壁の下半分ば取り換えたりしたもんやケン、現在は上部に12箇所ほどの弾痕が見られるとゲナ。
「しもうた写真取り損のうた」いうても、これは後の祭り。後悔先にたたず。ていうこと。
上・茅葺きの「鞘堂」で本殿はガッチリと守られとる。「鞘堂」いうとは、覆堂(ふくどう、おおいどう)ともいう。大事な建物ば風雨から保護するために、それらをがっぽり覆うごと外側に作る建築物のこと。本堂ば刀に見立てその入れもんが鞘ていう訳タイ。立派な高欄ば巡らせた回廊とともに立派な作りいうことが分かる。
下・左右の梁にどっしりと座っとんなる鬼さん。欄間の彫刻もただもんじゃなか。
日本語では「老」には「年老いた」ていうネガティブな意味しかなか。ところが中国語では「老」には「親しみのある」ていう意味が含まれとる。
「老婆」「老公」「老師」には尊敬と親密さがあらわれとる。
よそもんの藩主が産宮として取りあげるまでは、古代から人吉のもんにとって、親しみのある身近な神社やったとかもしれん。
上・八角の燈籠が参道の真ん中に立っとる拝殿と正面の鴨居に上がっとる扁額の文字は「老神社」