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城よりも滝廉太郎の「荒城の月」で有名 「大分県」の目次へ | |
国の指定史跡 | |
岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)。 岡城の築かれた天神山は標高325メートル、城域は、東西2500m、南北362m、総面積は23万4千平方mにもおよんどる。 | |
大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」て言われた天然の要塞であったことば感じさせられる。 言い伝えでは、文治元年(1185)にこの辺の領主・緒方惟栄(おがた これよし)が、源頼朝に追われた源義経ば迎えるために築城したことが始まりていう。
一方、「豊後国志」によると、志賀氏が直入郡に入ったとは応安2年(1369)以降のことやケン、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)ば居城としとったとやろう。 明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却。現在残っとるとは高う積み上げられた石垣だけ。 御三階櫓 秀成創建の御三階櫓は明和6年(1769)若しくは明和8年(1771)に風雨と地震により崩壊し、明治初期に撮影された御三階櫓は安政3年(1774)に再建された姿である。 現在残されとる城郭は、明治に至るまで岡藩ば統治した中川公によって築城されたもので、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの主な曲輪(くるわ)からなっとる。 天正14年(1586)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏ばやっつけるため、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃ばみせとったバッテン、岡城のみは志賀親次(しが ちかつぐ)の指揮のもと再三にわたり島津軍ば撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉から天正15年正月3日付けの褒状ばもろうとる。 明治2年(1869)版籍奉還後には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住したもんやケン、城の建物は7年(1874)大分県によりすべてが取り壊されてしもうた。 瀧廉太郎は少年時代ば竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったもんやケン、明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」ば作曲、発表しとる。 「荒城の月」 (こうじょうのつき)は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。哀調ばおびたメロディと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した作品で親しまれた。 この詩では「千代」ば「ちよ」て呼んどるバッテン、伊達政宗が「千代」(せんだい)ば「仙台」(仙臺)て書き改め、現在の仙台市につながっとるもんやケン、仙台出身の土井晩翠が「仙台」の掛詞である「千代」て書き、「ちよ」て読みば替えて「仙台」のことば暗に示しているとも考えられとる。 滝廉太郎と 荒城の月 ↑ 城趾にある「荒城の月」の記念碑。 ↓ 仙台市にある土井晩翠の碑 → 全部取り壊されてなぁも残っとらん城内の配置図 | |
場所・大分県竹田市大字竹田。太宰府ICから九州自動車道ば八女ICまで、28km、25分、ETC830円。下りたら取付道路から右折して国道442号線ば八女市内市内抜けて、小国越して約90Kmで竹田に着く。4方に歩行橋のある信号ば左折してトンネルばくぐり、県道57号線ば約800mで「天神」の信号ば左折。今度は県道502号線ば800m走り、「岡城趾入口」信号ば左折して道なりに400Mで広々とした駐車場に到着する。 取材日 1998.4.4/2007.7.3 | |
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