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城よりも滝廉太郎の「荒城の月」で有名    「大分県」の目次へ
国の指定史跡

 岡城(おかじょう)は、豊後国直入郡竹田(現在の大分県竹田市大字竹田)にあった日本の城(山城)。

 「臥牛城(がぎゅうじょ う)」とか「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれとる。

 岡城の築かれた天神山は標高325メートル、城域は、東西2500m、南北362m、総面積は23万4千平方mにもおよんどる。

 その広さは東京ドーム(46.755?)の22個分にあたるていう。

 大野川の支流、稲葉川と白滝川が合流する間の舌状台地上に築かれ、川岸からそそり立つその姿はかつて「難攻不落」て言われた天然の要塞であったことば感じさせられる。

 言い伝えでは、文治元年(1185)にこの辺の領主・緒方惟栄(おがた これよし)が、源頼朝に追われた源義経ば迎えるために築城したことが始まりていう。


 その山城は、南北朝時代の建武元年(1334)に後醍醐天皇の支持ば受けた大友氏一族の志賀貞朝(しが さだとも)によって拡張され、岡城と名付けられたということになっとる。

 一方、「豊後国志」によると、志賀氏が直入郡に入ったとは応安2年(1369)以降のことやケン、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)ば居城としとったとやろう。

 明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却。現在残っとるとは高う積み上げられた石垣だけ。

 なお、昭和62年(1987)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された。

 昭和11年(1936)「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006)、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選にも選定された。

 御三階櫓
本丸南隅にあり、創建当初のもんは再建時のもんより一回り大きかったバッテン、外観意匠などは不明。

 秀成創建の御三階櫓は明和6年(1769)若しくは明和8年(1771)に風雨と地震により崩壊し、明治初期に撮影された御三階櫓は安政3年(1774)に再建された姿である。

 現在残されとる城郭は、明治に至るまで岡藩ば統治した中川公によって築城されたもので、本丸、二の丸、三の丸、西の丸などの主な曲輪(くるわ)からなっとる。

 趣味人やった第5代藩主 中川久通は、城の北側にある絶壁に弦長約3mの三日月ば彫らせ、月のなか晩夜でも明かりば灯し、月見の宴ば楽しんだていう。今で言うならライトアップやろう。

 天正14年(1586)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏ばやっつけるため、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃ばみせとったバッテン、岡城のみは志賀親次(しが ちかつぐ)の指揮のもと再三にわたり島津軍ば撃退し、親次はその功績から豊臣秀吉から天正15年正月3日付けの褒状ばもろうとる。

 豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593)文禄の役で22代大友吉統(よしむね・義統ば改名)が秀吉から鳳山撤退ば責められ所領ば没収されると、大友氏重臣の親次も岡城ば去らないかんごとなった。

 翌、文禄3年(1594)播磨国三木から中川秀成(なかがわ ひでしげ)が4千人連れて移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築ば施した。そやケン、彼が初代の岡城主といわれとる。

 この修築では、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓ば造営し、城の西側ば拡張、重臣屋敷群ば設けた。本丸に御三階櫓ば設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門ば開き、大手門ば東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め3口とした。

 また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷ば接収して西の丸ば築き御殿ば造営しとる。
 岩盤の台地の上に築かれとるもんやケン、台風やら地震、火事などの被害ば多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半ば焼く大火が起きてしもうた。

 明治2年(1869)版籍奉還後には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住したもんやケン、城の建物は7年(1874)大分県によりすべてが取り壊されてしもうた。

 瀧廉太郎は少年時代ば竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったもんやケン、明治34年(1900)に中学校唱歌「荒城の月」ば作曲、発表しとる。

 城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みば眺められるところに建てられとる。
 大野川ば挟んで岡城の下ば走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっとって、岡城からでもその音ば聞くことが出来る。

 周辺は整備され毎年4月に「岡城桜まつり」が開催され、大名行列が再現される。城址の保存状 態に対して評価が高く、多くの見学者が訪れる観光地となっとる。晴れた見通しのいい日は城山から祖母山、傾山、阿蘇山、および九重連山ば望むことがでける。

「荒城の月」 (こうじょうのつき)は、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲による歌曲。哀調ばおびたメロディと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した作品で親しまれた。

 明治34年(1901)に旧制中学校唱歌の懸賞応募作品として、瀧廉太郎が作曲した。詩は、東京音楽学校が土井晩翠に依頼したもの。原題は「荒城月」やった。明治36年(1903)に瀧が死んだ後の大正6年(1917)山田耕筰はロ短調からニ短調へ移調、ピアノ・パートば補い、旋律にも改変ば加えた。

 全8小節からテンポば半分にして16小節に変更し、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音ば、原曲より半音下げとる。

 仙台城にある「荒城の月」歌碑。昭和27年に晩翠の胸像とともに建立された。除幕式に晩翠は病ばおして出席し、「身にあまる ほまればうけて ただなみだ 感謝ばささぐ 一切の恩」て詠みその場で号泣したていう

春高楼の花の宴えん めぐる盃さかずきかげさして
千代の松が枝えわけいでし むかしの光いまいずこ

秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ

いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし

天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月

 この詩では「千代」ば「ちよ」て呼んどるバッテン、伊達政宗が「千代」(せんだい)ば「仙台」(仙臺)て書き改め、現在の仙台市につながっとるもんやケン、仙台出身の土井晩翠が「仙台」の掛詞である「千代」て書き、「ちよ」て読みば替えて「仙台」のことば暗に示しているとも考えられとる。

 その場合、「千代の松」は「仙台(城)の松」となるけど、「千代」は「長い年月」の意味もあるケン、両方ば掛け合わせたととった方がよかろう。

 ちなみに、「仙台」とは「仙人の住む高台」ば意味し、伊達政宗が住む山城の仙台城(青葉城)ば示しとる。仙台城ていう城の名前から城下町も仙台となった。

滝廉太郎
   荒城の月

↑ 城趾にある「荒城の月」の記念碑。

↓ 仙台市にある土井晩翠の碑

 土井 晩翠(どい ばんすい、1871〜 1952年)いうたら、日本の詩人、英文学者。瀧廉太郎の作曲で知られる「荒城の月」の作詞者。

 仙台の富裕な質屋の長男として生まれた。

→ 全部取り壊されてなぁも残っとらん城内の配置図

 場所・大分県竹田市大字竹田。太宰府ICから九州自動車道ば八女ICまで、28km、25分、ETC830円。下りたら取付道路から右折して国道442号線ば八女市内市内抜けて、小国越して約90Kmで竹田に着く。4方に歩行橋のある信号ば左折してトンネルばくぐり、県道57号線ば約800mで「天神」の信号ば左折。今度は県道502号線ば800m走り、「岡城趾入口」信号ば左折して道なりに400Mで広々とした駐車場に到着する。       取材日 1998.4.4/2007.7.3

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