島民の長い間の願いやった大船越瀬戸の開削には、延べ35,000人が狩り出されたていう。のちに拡張され最終的に長さ242メートル、幅49メートルになった。
瀬戸の開通で東へも西へも出漁できるようになって、船が集まり集落も広がった。
この掘削工事は日本で二番目に古か公共事業やったゲナ。
こげな話もある。明治維新前夜の文久元年(1861)2月、浅海湾にロシアのポサドニック号いうとが来てクサ、故障ば修理するいうてから、芋崎沖に停泊したとはよかバッテン、上陸した乗組員は小屋ば建て井戸ば掘るは、家畜は略奪するわ、太平楽に振る舞うてクサ、長期に滞在する構えば見せた。
たまがった対馬藩は、立ち退きば要求したけど、立ち退かんもんやケン、慌てくりまわって幕府に急報した。
バッテン、ロシア艦の艦長は「対馬が列強(イギリスやらフランスやらアメリカていう、当時強かった国)の植民地になるとば阻止するためタイ」なんて唱えてクサ、幕府の要求にも従おうとはせんやった。
その上、ロシア艦の乗組員は、当時通行ば禁じられてとった大船越瀬戸ば通過しようとして、これば止めようてした地元民と衝突しとるとタイ。
この騒動で松村安五郎ていう小者が殺され、その責任ば感じた瀬戸の役人の吉野数之助が自殺に追いやられるていう事件にまで発展した。
しかし、対馬藩はもとより、幕府にもこの事態に対応する力がなかったていうケン、しかともなかことタイ。事件は最終的に、ロシアの日本進出ばよう思うとらんイギリスの力ば借りて、ロシアの艦ば退去させたていう。
当時は、アジア進出ば狙う欧米列強にとって、日本の植民地化は大きな狙いやったケン、抜け駆けしょうてする。それば牽制する。ていう列強の動きが三すくみになっとって、あやうく、日本は植民地化ば免れとるていう状況やったとのごたる。
これで死んだ2人は、のちに戦没者として靖国神社に祀られ、大船越に石碑が建立されたていう。
そののち対馬は、明治33年(1900)に旧日本海軍が軍艦ば通すために掘った人口の水道、万関水道との2ヶ所で朝鮮海峡と対馬海峡の間ば船が行き来できるようになった。
こんときは植民地化ばまぬがれたバッテン、いまの対馬はどうかていうと、陸上は韓国の観光団に占領されて、海中は外国の魚が繁殖して、いままで釣れよった日本の魚が居らんごとなっとる。
大船越瀬戸もそうタイ。瀬戸の水中ばのぞいてみたら、こまんかキラキラした熱帯魚のごたる魚がウヨウヨと、我が物顔に泳ぎよった。近くの漁師さんが「こん魚たちにゃ、困ったもん」て云いよんなったし、民宿のおかみさんは「魚が釣れんごとなったケン、釣り人のお客さんが減った」て悔やみよんなった。
国境の島は、時代時代で翻弄されていく運命にあるとねぇ。
左・大船越瀬戸堀切由来の碑
瀬戸南側には、瀬戸ば無理矢理通ろうてしたロシア兵ば阻止しようとして死んだ松村安五郎と吉野数之助ば記念する碑もある。
上・大船越瀬戸の海中に溢れとる外来の魚。これのおかげで日本の魚が居らんごとなっもんやケン、魚釣りに来る人が減ったて、民宿が悔やみよんなった。
左。大船越瀬戸東側の岸壁は海の神ばっかし。