東与賀の歴史は干拓の歴史ていうてもヨカ。
有明海で最も古か干拓は、推古天皇の頃(593〜629年)に開かれたもんていわれとって、それがほんなことなら、1400年も前の話タイ。
これまでに2万6千ヘクタールば超える面積の干拓が行われとるていう。しかも、現存する干潟の面積はまあだ約2万1千ヘクタールもあるていうケン、どんくらい広かとか見当も付かん。
天文22年(1553)龍造寺隆信が、筑後から佐嘉(佐賀)に帰還したとき、川副町鹿江崎から上陸しとって、そんとき、船津、実久、上蜘、下飯盛の村長の協力ば得たていう記録が残っとるケン、1500年頃は、上町、下飯盛ば結ぶ線が海岸線やったて思われる。(上の図参照)
戦国時代末期になると、作出・住吉・大野あたりまで陸地化されとって、作出(作土井)は、その名の通り、村の中の道が東西に連なる海岸堤防やったていう。この横デー(土居)は作出の西から南に折れて新村の西へ曲がり、住吉・大野へ向かうとったていう。ウランデー(裏土居〕ともいいよって、ずーっと櫨の木が植えてあったらしか。
上・シチメンソウが咲く「大授搦堤防」 下・有明海に沈む夕日。海と干拓ば仕切る堤防がはるか彼方まで続く。
明治時代以後になると、干拓は次第に大型化して、明治4年(1871)には大搦(おおがらみ)、明治20年(1887年〕には授産社搦(じゅさんしゃがらみ)堤防が起工し、大正15年(1926年)には、面積313ヘクタールていう大授搦(だいじゅがらみ)の工事が始まった。
大授搦は、起工から約8年がかりで、やっと昭和9年(1934)全部が耕地化された。
いま、堤防の内側にはシチメンソウの群落と「干潟ヨカ公園」がある。
また昭和3年(1928)戊辰の年に戊申搦46ヘクタールが完工し、さらに戊申搦の南に第二戊申搦55ヘクタールが、昭和37年(1962)に完成し、これで現在の東与賀の姿になった。ていう訳。(これも上の図参照)
いちばん外の大授搦堤防がでけて、先にでけとった堤防は、干拓地の中に取り残されてしもうたバッテン、現存する石積み堤防の長さは、大搦が1,425m、授産社搦堤防が1,325m。
堤防の上は道路として利用され、石積み部分の保存状態は良好、その景観は築造当時の面影がそのまま残っとる。
歴史的価値のある建造物やが、なんせ見た目が地味やケン、気付く人は少なかろう。
よそもんがちょっと見たっちゃ分からんバッテン、有明海奥部の陸地はほとんどが海抜ゼロメートル以下の平地。満潮時の海水面と土地の高さの差が逆転しとるケン、堤防に守られて生活しよるようなもんタイ。
地元の人は、海外の留学生やら観光客ば案内する時、堤防まで連れて行って「オランダのようなところ」て説明しよんなるゲナ。
佐賀は県庁もこの辺の主要道路も、海抜ゼロメートル地帯にあることば知っとるもんは少なか。
写真・この干拓の広さと、幾重にも延びる堤防ば表現しょうと思うたら、空からなっと撮るしかなか。地上でチョコチョコ撮ってもミミッチカ絵にしかならんやった。
そのうちに藩が堤防ば造るごとなって、江戸時代最大の海岸堤防ていわれる松土居は、寛永(1624〜43)から寛文(1661〜72)の間、とくに1625年頃から1665年頃にかけて構築されたらしか。
この松土居は「万里の長城」のごと長か堤防で、藩内の土地ば有明海の潮の浸入から守り、領内の米の石高ば安定させるための、鉄壁の防衛線やったていう。
藩政以降の本格的な干拓は、松土居の外側で行われ、仙右衛門搦、勘兵衛搦、権右衛門搦ていう舫頭(もや一がしら・組合長のこと)の名がついた2〜3ヘクタール以内の干拓が、魚のうろこ状に並んどった。(これも上の図参照)
有明海と干潟
有明海の干潟は、30万年前から9万年前の間に4回もあった阿蘇・久住山系の大噴火により堆積した火山灰や土砂などが、筑後川などの川によって流れ出し、潮の干満で押し戻されたり繰り返したあげく、沈降・堆積して成長してきたて考えられとる。
成長した干潟は、小潮の満潮時でも水没せず露出したままていうぐらいになる。このため、奥にある干拓地は河口がせばめられるケン、排水が出けんごとなってしまう。これじゃあいかんケン、干潟ば干拓して排水路や耕地の整備が必要になる訳。このいとなみが気の遠くなるほど長年続けられてきとるとタイ。
有明海は約1,700キロヘーベーもある広大な海のくせに浅か。干満の差は5m以上(我が国最大)もあつて、干潮時には海岸線から5〜7kmの沖合にまで干潟となって露出する。
その干潟は、多かところでは年に約5センチ、平均でも数センチ成長しとるていう。
東与賀海岸は、昭和天皇の最後の行幸地として有名になった。
面白し 沖へはるかに汐ひきて
鳥も蟹も見ゆる 有明の海
この歌は昭和天皇が最後の歌会で、有明海の様子ば歌いなったもんゲナ。最後の訪問(昭和62年5月23日)ば記念して、展望台には記念碑が建てられとった。
そん時の歌が
眼前に 有明海は広がりて 今年生まれし むつごろう放つ
これも堤防の展望所に碑が建っとった。
「搦(からみ)」とは有明海周辺で多く見られる地名。
干拓ばするときに海ば仕切る堤防のこと。
同じ干拓地によく見られる地名として「蘢・開・灰」ていうともある。
「蘢(こもり)」とは入江の静かな浅か海ば、人手でしめきって干拓したところにつけられた地名。
「搦」は遠浅に杭ば打ち、その間に横木ば並べて石ば置いとくと、潮の干満で交互に泥が「からみ」ついて自然に土手がてける効率のよかやり方。年数さえ経てば「からまった」泥土は次第に積み重なって高まり、そこば締め切ればよかった。こっから発生した地名。
「籠」はそれほど労力ば投入んでも、締切る程度で陸化できた干拓地バッテン、「搦」は大量の労働力ば投入して、意図的に造られた比較的新しか干拓地に多か。東与賀町がその典型で、鍋島藩の専売特許やつたかもしれん。
佐賀市には西搦(にしがらみ)東搦(ひがしがらみ)戊申搦(ぼしんがらみ)二番搦(にばんからみ)
伊万里市にも西八谷搦(にしはちやがらみ)東八谷搦(ひがしはちやがらみ)
小城市は社搦(しゃがらみ)宝永搦(ほうえいがらみ)
杵島郡白石町は干拓が多かケン、遠江搦(とおのえからみ)観音搦(かんのんがらみ)権和搦(ごんわからみ)七搦(なながらみ)昭和搦(しょうわからみ)村搦(むらがらみ)大原搦(たいばるからみ)築切搦(ついきりからみ)咾搦(おとながらみ)北ン搦(きたんからみ)て、搦ばっかし。
地名ついでに「開(ひらく)」は新しく開墾した土地。「免」はむかし免税されとった土地。
壱岐は港の開いとるところは「浦」で、あとはどっこもこっこも「触(ふれ)」ばっかしバッテン、これは韓国語の部落ていう説と、百姓頭が「触れて回れる広さの」行政区画ていう説とがある。
今の天皇・皇后は、平成18年10月29日「第26回全国豊かな海づくり大会」に来なったとき、ここの海岸でムツゴロウ稚魚の放流ばしとんなる。