昭和9年生まれの「犬飼橋」頑張っとる
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産業遺跡 |
左が「犬飼橋」右の赤いとが最も新しか歩行者専用の「犬飼中橋」、右奥オレンジが「犬飼大橋」 |
旧犬飼橋は、大分県の一級河川大野川中流域に架かる鋼橋で、国道10号と県道631号線ば結び、4段になった井桁状橋脚が特徴のワーレントラス橋。
ワーレントラスいうとは、斜材の向きば交互にしたトラス橋。 プラットトラスと違うて垂直材がなかケン、鋼材が節約でき、安価で軽量にでける。
斜材は橋中央部から端部に向けて「ハ」の字にあたる部分が圧縮力ば、「逆ハ」の字にあたる部分が引張力ば負担する。
ついてにトラスいうとは、三角形ば基本単位としてその集合体で構成する構造形式のこと。「結構」ともいう。これだけ知っとりゃけっこう、結構。
この橋は、昭和9年に完成し、昭和42年まで一般国道57号やったとバッテン、上流側に犬飼大橋がでけたもんやケン、現在は、県道に格下げされとる。
下流からから犬飼橋、犬飼中橋、犬飼大橋と並んどって、この三本の橋ば見渡せるとは犬飼町久原交差点。この三本の橋には、深い歴史と意味合いがある。
まず上の写真で手前にある犬飼橋は、大正11年架設でありながら現役の橋。土木遺産価値も高く九州の土木遺産登録されとる。
この橋の架設以前は、右岸側は旧臼杵藩戸上村、左岸側は旧岡藩の犬飼町と国境・町村境やった。この大野川ば渡るとには渡し船ば頼っとった時代の話タイ。
次に奥に見えとる赤い犬飼大橋、大分市が新産業都市の指定ば受けた昭和39年以降、久原付近の交通量が日ごとに膨れあがってきたため、大野川と豊肥線上部ば渡る全長258メートル、幅7メートルの犬飼大橋が昭和42年に架設されたていう訳。
設計活荷重はTL-20(旧1等橋)と大型車の日々の通行に耐える設計がされていたため、平成2年と5年の未曾有の大洪水にも耐えることが出来たていわれとる。
活荷重(かつかじゅう)とは、力学における荷重のひとつで、一定の場所に留まらなんもの、大きさが一定せんものば指す。このことから動荷重(どうかじゅう)・変動荷重(へんどうかじゅう)とも呼ばれ、橋などの構造物においては、自動車や列車のように構造物の上をば移動する車両重量がこれに相当する。 最後に犬飼中橋、この橋が最も新しくて昭和49年の架設、久原付近の交通量が増えすぎたもんやケン、小中学生の通学の安全確保のため歩行者専用として完成。橋の命名も当時の犬飼中生徒より募集し決定したていう。 現在は平成16年に完成した約2キロ下流のバイパス「どんこ大橋」に車の流れが移ったものの、犬飼三橋は犬飼町の動脈として、玄関として変わらず役割を果たしとる。
↑ 手前が「犬飼橋」、ひっついとる赤いとが「犬飼中橋」奥のオレンジ色が「犬飼大橋」 ↑ 「犬飼橋」 ↑ 犬飼橋の橋桁部分はしっかりした構造。 ↑ 左が犬飼橋で右に寄りそう歩行橋の犬飼中橋 |
場所・大分県豊後大野市犬飼町。太宰府ICから九州自動車道ば熊本ICまで92km、60分、2590円。熊本ICば出たらそのまま国道57号線ば阿蘇通り越して約90km、犬飼に入って犬飼インター出たら200m先の「下津尾」信号ば左折。300mで大野川に架かった犬飼大橋ば渡る。渡ってしもうたらすぐカックンとV字左折すれば、自動車工場の向こうに犬飼橋の入口と水色の橋桁が見えとる。 取材日 2008.5.6 |
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明治橋(めいじばし)は、臼杵市野津町の大野川水系野津川に架かる鋼橋。
架橋当初の場所にある現役の鋼橋としては日本最古の2連橋ゲナ。
そやケン、平成17年(2005)に土木学会選奨土木遺産と大分県指定有形文化財に選定されとる。
国道10号(当時は国道36号)の一部として、明治35年(1902)に架設された。
現存する道路用鋼鈑桁橋とし ては日本で2番目に古く、また、日本最古の鋼・コンクリート合成床版の鋼橋でもある。
形式は2連単純鋼2主鈑桁橋で、橋長は32.5m(16.25m × 2)幅員は5.4m。主桁の高さ1.4m。
設計者は安田不二丸。施工者の大阪鉄工所は現在の日立造船。
この橋の架設当時は、日本では製鉄の橋はほとんど架橋の技術も材料もなかったケン、イギリスから輸入されたドーマンロング社製の鋼材が使用されたていう。
近代架橋技術の黎明期ば今に語り継ぐ貴重な歴史遺産ていえる。
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場所・大分県臼杵市野津町大字野津市 太宰府ICから九州自動車道ば熊本ICまで92km、60分、2590円。熊本ICば出たらそのまま国道57号線ば阿蘇通り越して約90km、犬飼に入って犬飼インター出たら200m先の「下津尾」信号ば左折。300mで大野川に架かった犬飼大橋ば渡る。渡って突き当たりの「久原」信号ば右折。国道10号線ば約8km南下すると先に「野津町明治橋」信号が見え、その手前で国道は野津川ば渡る。橋の右側ば見れば、右にあるスタンドに突き当たるごとして明治橋が並行して架かっとるとが見える。 取材日 2008.5.6 |
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歴史の橋も床板がはげて通行止めに
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細長橋(ほそながばし)は、大分県豊後大野市の大野川に架かる橋。
大野川が三重川と合流する地点のやや上流、豊後大野市三重町宮野字細長と同市犬飼町田原との間に架かかっとる。
かつて国道326号の旧道やった豊後大野市道深野細長線の橋。なお、昭和58年(1983)に完成した現在の国道326号は、この橋の下流で大野川ば越えていく。
昭和6年(1931)12月に開通した。橋長115.1メートル、幅員4.9メートル。7径間の桁橋で、中央部に支間の長さ各28.5メートルていう2連の下路式鋼ポニー平行弦ワーレントラス構造で、右岸側の2径間および左岸側の3径間がコンクリート桁でてけた道路橋。下の橋脚は切石積み。
コンクリート床版が剥離して鉄筋が露出するなど、老朽化によって危険な状態になったもんやケン、合併して豊後大野市となる前の旧三重町によって通行止めとされとる。 最近ではフェンスが設置され出入りが出来んごとなってしもうとる。
この橋の歴史は・・・
江戸時代、大野川中流域の右岸にあった三重郷は臼杵藩領で、大野川には河川港の細長港や吐合港が設けられとって、対岸の犬飼港とともに大野川の舟運ば担うとった。細長港には三重や野津から戸次まで上納米ば運ぶ船が頻繁に発着しよった。
明治9年(1876)には、大野川ば浚渫して沈堕の滝下の瀬頭まで船が遡上できるようになり、細長には多くの商店が建ち並び市街地が形成されとった。
細長橋の北側の山林内には細長の繁栄の様子ば記した「細長繁栄記」の碑が残っとる。この碑は明治11年(1878)に建立されたもんで、豊後大野市の有形民俗文化財に指定されとる。
しかし大野川の通船は、豊肥本線の開通などに伴い衰退していった。
江戸時代には細長港付近に橋はなく、細長には渡しが設けられとったらしか。細長の渡しは明治時代に入って交通や運輸が増えると県営となった。
細長は大分市市街地から犬飼町ば経て三重町に至る交通の要路にあったケン、やがて渡し船では増大する貨物輸送の需要に対応でききんごとなって、明治時代末から架橋の必要性が叫ばれ、昭和6年(1931)12月にこの細長橋が完成した。一方、細長の渡しは、細長橋の開通に伴って廃止された。
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場所・大分県豊後大野市犬飼町 太宰府ICから九州自動車道ば熊本ICまで92km、60分、2590円。熊本ICば出たらそのまま国道57号線ば阿蘇通り越して約90km、犬飼に入って犬飼インター出たら200m先の「下津尾」信号ば右折。三国街道ば約1kmで豊肥本線ば越した信号で右折。あと大野川ば左に、豊肥本線ば右にして1kmばかり走ると左手に通行止めのネットば張った橋の入口がある。
これが「細長橋」 取材日 2008.5.6 |
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