このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

誰が架けたかも分からんバッテン 美しか橋     「鹿児島県」の目次へ
市指定有形文化財

 鹿屋市祓川、一級河川肝属川に架かる大園橋

 この石橋は鹿屋から北上する国道504号線と、鹿屋川(肝属川の上流を鹿屋川ていう)が、字大園で交差する地点に架かっとる。

 いまは国道が50mばかり西に移動して新しか橋になっとるケン、大園橋は通る人もなく、年金生活者のごと悠々自適で遊んどるごと見える。

 残っとる親柱には「明治三十七年五月架橋」て刻まれとった。これは日露戦争が起こった年タイ。

 工事は鹿児島の伊敷から石工がきて造ったていう。肥後の石工の影響ば受けた技術は抜群。

 美しゅうして強かケン、洪水にも耐えて、これまで残ってきとるとやろう。

 大隅地方に残る貴重なめがね橋やケン、
昭和63年「祓川大薗の石橋」として鹿屋市の民俗有形文化財に指定されとる。

 それにしても肝属川は、くねくねとよう曲がっとるバイ。それに沿うとる国道も運転しよって酔うごとカーブばっかし。


 下の写真は下流の国道から。 

 なんせ記録がまったくなかケン、誰が架けたとか、経費そのほか詳しいことはいっさい不明。バッテン当時としては相当の経費を使うた大工事やったに違いなか。

 全長30m、橋幅3.9m、高さ(拱矢)5.2m、径間9m。橋床は複式アーチ型(めがね橋のこと)メガネいうても、橋が低うて長いケン、アールが緩やかで楕円の眼鏡タイ。

 この優雅な2連の石アーチは、扇形の壁石がなかバッテン、鹿児島市の甲突川に架かる甲突五橋に似た雰囲気で、橋脚がない代わりに小型の水切のある点も似とる。
 肝属川流域に残るただ一つの石橋やケン、地域にとっては、まさに「お宝橋」やろう。

上の写真は上流から見た大園橋。アーチの下に国道の橋が見える。石橋はうしろの高隈山系にようマッチしとる。

 大園橋が架かっとる肝属川(きもつき)は、200万年ほど前に高隈山地がでけたとき、いっしょにでけた。当時は源流からそのまま東へ流れとったとバッテン、約2万5千年前に発生した入戸火砕流で笠野原台地がでけたもんやケン、いまの鹿屋市吾平町の方へ南流するごとなったらしか。

 明治以前は下流部の蛇行が激しく、堤防がほとんどなか原始河川に近い状態やつたケン、大雨が降るたびに氾濫して平野全体が水没しよったらしい。

 大正3年(1914)の桜島大正大噴火で、流域に大量の火山灰が降り積もって、河床が上昇して危険な状態となった。地域の住民が改修工事ば始めたそうやがとても間尺に合わず、作っては流され、作っては流されが続いた。

 そして昭和13年(1938)10月15日、
台風による大水害が発生。死者278名、行方不明者177名の大惨事となった。人が死なな動き出さん政治は、やっと蛇行の直線化ば進めることになった。工事は長期計画で行われ、昭和38年(1963)にほぼ完成したていう。

 昭和42年(1967)には一級河川に指定され、平成8年には鹿屋市内のシラス台地ば貫く鹿屋分水路が完成した。

永年の風雨に耐えとるもんやケン、あっちこっち、ひっ欠けとるバッテン、親柱にはしっかり大園橋の彫り込みが残っとった。

 場所・鹿児島県鹿屋市祓川。国分市から国道10号線の亀割バイパス。牧ノ原から右折して国道504号線で約40km南下。右に祓川小学校ば見たら、1km先で国道が肝属川ば渡るときに左を注意。       取材日 2008.8.10

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