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 鎮西八郎為朝が作った            「熊本県」の目次へ
 

 六殿神社(ろくでんじんじゃ)は、熊本市南区の南の端、もう宇土に近い雁回山(がんかいざん)の麓に鎮座する神社。
 後白河天皇の御代(1155-1158)、武将・鎮西八郎為朝(ためとも・源為朝)が阿蘇宮ば崇敬し、西国安鎮のための遙拝殿ば建てたとが始まりと伝えられとる。

 雁回山(がんかいざん)は標高314.4m。白亜紀の堅ぁか礫岩(れきがん)ででけとる山で浸食が進んどる。山麓に木原城(きわらじょう)ていう中世に築かれた山城の跡がある。これが鎮西八郎源為朝の居城やった。

 もともとは、球磨郡の相良氏から八代城ば追い出された名和氏がおったとバッテン、なしかこれが為朝城跡ていわれ、弓の名人鎮西八郎為朝やら鬼にまつわる伝説が多か。

 それによると、若いときの為朝は余りに乱暴やったケン、父の為義から九州に追放された。始め豊後におったとやが、やがて肥後に来て阿蘇氏と結び、その後木原山に城ば築いて住んだていう。阿蘇大宮司忠国の聟(むこ)になって九州ば手に入れ、自ら鎮西八郎て名乗ったとゲナ。

 のちに父為義といっしょに保元の乱で奮戦したとバッテン、敗けて近江で捕まり、伊豆大島に流刑になって自害したていう。これが史上初めての切腹ていわれとる。

 雁回山の名はクサ、為朝が山の上ば飛ぶ雁ば64人力の強弓でどんどん射落としたもんやケン、雁が山ば避け遠回りして飛んだからて伝えられとる。

その後、治承2年(1178)高倉天皇の勅願で鎮西地方の鎮護の宮として、時の内大臣の平重盛が、緑川沿いの菰江の地に船で来て、阿蘇大明神、天照皇大神、埴安姫神、諏訪大明神、氷川大明神、稲荷大明神を祀って仮宮ば建てたのが六殿神社の創建ていう。
さらには、平安末期にこのあたりば治めとった木原氏の創建ていう説もあってよう分からん。
天正16年(1589)には、キリシタン大名の小西行長が宇土城城主となり、領内の社寺ば焼討した。
本宮は火難はまぬかれたものの、神領や宝物は掠奪され、本地堂等を焼失してしもうた。
慶長5年(1600)小西行長征伐に来た加藤清正は、ここで宇土城攻略の戦捷祈願ばして、目的ば達したもんやケン、神領ば寄進し社殿ば改修した。

 六殿神社の楼門は、別名「釘無しの門」いうて、明治40年(1907)に熊本県下の建造物としては最も早う国の重要文化財の指定を受けたことで有名。
 これは、室町時代、天文18年(1549)名和顕忠により建立された三間一戸の入母屋造り、茅葺き、重層の門で、飛騨の番匠甚五左エ門の作てされとる。
 昭和4年(1929)国費ば使うて修理され、現在に至っとる。

 屋根は入母屋造の茅葺き、柱の上の「組物」などは都で培われた巧みな手法で作られとって、室町時代の典型的な建築様式て評価が高っか。

 木の部分はすべて丹(たん)塗りで、春夏秋冬・朝昼晩・晴れ曇り雨のときどきに見える色が変化するていう。

 明治40年に熊本県でいちばんに国の重要文化財指定ば受けた。

 
加藤清正が慶長5年(1600)に宇土城ば攻めたとき、ここば通りがかって楼門が焼けとらんとば見て、由緒ある神社が無事やったことば喜んでクサ、「この神社に対して乱暴したり、放火、伐採やらしたもんは、厳罰に処す」旨の制札ば境内に建てさせたていう。

 いまでも上部ば山形に切り落としたこの制札(縦36.7cm・横51cm)は、かすかに墨色ば留めて残っとる。昭和61年には天皇在位60周年ば記念して参道入口に大鳥居が建立された。

 2010年には社殿に92歳の建築会社社長植村数義さんが、嘉島町の日本画家大塚汽平(48歳)に半年がかりで描いてもろうた天井画(直径3.6m)ば寄付しなったていう。絵柄は雁回山にちなんで為朝タイ。

 行ったとが夕方で拝殿も閉まっとったケン、格子の間からカメラば突っ込んで写真ば撮りよったら、見回りのおいしゃんが胡散臭そうに見ていきなった。賽銭泥棒て疑われたとかも知れん。

 場所・熊本市南区富合町木原。九州自動車道ば太宰府から城南スマートまで1時間普通車2.990円で走る。取り付け道路から県道38号線へ左折。西へ2.5km行くと左手に看板と鳥居が見える。右折して400mで右に駐車場がある。
    取材日 2011.5.15

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