戦国時代の天正12年(1584)3月 森岳城(いまの島原城)付近の沖田畷いうところで、有馬・島津連合軍と戦うた肥前の領主龍造寺隆信が、敵の知将・島津家久からやられ討ち死にしてしもうた。重臣の鍋島直茂は主君隆信の遺骸ば放ったらかしたまんま、かろうじて佐賀へ逃げ帰るほどの負け戦やつた。
天正18年(1590)直茂は龍造寺家の後継ぎ高房の後見人として豊臣秀吉から認められ、以後、鍋島は主家の龍造寺ば圧倒して実権ば握っていった。秀吉の朝鮮出兵時も、関ヶ原の戦でも直茂が大将として参戦したケン、いよいよ鍋島が目立ち、龍造寺は影が薄うなつていつた。
直茂は関ヶ原ではもちろん西軍やったとバッテン、同じ西軍の立花宗茂ば攻めたりした功績で、徳川幕府からも旧領ば取りあげられんで済んだいうくらい世渡り上手な男やったごたる。
慶長12年(1607)龍造寺高房が急死。これは鍋島に実権ば握られて憤慨、失望した高房が、妻ば殺して自分も死んだていうことになつとる。
高房には3人の子がおったとやけど、直茂は出家させるやらして追い出したもんやケン、事実上これで龍造寺本家は絶えてしまい、龍造寺隆信と義兄弟やった鍋島直茂が、龍造寺家の家督ば引き継ぐ形で、佐賀藩35万7千石ば手に入れ、大名となった訳。
佐賀の化け猫騒動いうとがある。
鍋島家の家臣、小森半太夫が猫ば虐待したもんやケン、その猫は恨みば抱いて、殿の愛妾お政の方ば食い殺し、化身して鍋島家に仇ばなすていう筋のもんタイ。こげな話も龍造寺の恨みから来とるかも知れん。
鍋島は肥前の実権ば握ったもんの、佐賀藩は長崎に近かったケン、幕府から福岡藩と1年交代で警備ば命ぜられとったり、文政11年(1828)の台風で死者1万人の被害ば出すやらして、藩の財政は破綻寸前ていうくらい悪化しとった。
ここで出てきたとが10代藩主・直正(なおまさ・号が閑叟)やつた。
直正は以降、藩政改革や西洋技術の摂取につとめ、特に大がかりなリストラばして、役人ば五分の一に減らした反面、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力ば注いだ。
そやケン、経済活動は活発になり、表高(おもてだか)は36万石やったバッテン、実質100万石は超しとったて云われるくらいに藩財政は潤うてきた。
直正はその財力で藩校の弘道館ば改革し、優秀な藩士ば育てる。藩費で長崎や江戸に多くの人材ば出して勉強させた結果が、反射炉や蒸気機関、鉄製の軍艦、アームストロング砲などの開発成功に現れる。
いうたら佐賀藩は当時の最先端テクノロジーば持っとる藩になっとった。
この佐賀の藩校からは副島種臣、大隈重信、大木喬任、佐野常民たちと一緒に江藤新平、島義勇も明治維新に功績ば残しとる。いまでも直正は「閑叟(かんそう)さん」ていわれ佐賀の人たちから尊敬ば受けとんなる。
(直正については、九州遺産の佐賀の項「栴檀橋」も参照しちゃんしゃい)
ま、こげなことば頭に入れといてもらえば、佐嘉神社のややこしさば理解するとに役立つかも知れん。
さて、佐嘉神社のことば書くには、同じ境内にある松原神社(まつばらじんじゃ)のことから始めないかん。
松原神社は、安永元年(1772)鍋島家の始祖・鍋島直茂(ほら直茂が出てきたバイ)ば祀る神社として創建されとる。直茂の法号からとって「日峯大明神」ていうた。いまも「日峯(にっぽう)さん」の愛称で呼ばれとる。
文化14年(1817)に直茂の祖父・清久、直茂の内室・彦鶴姫ば一緒にして祀った。明治5年(1872)直茂の子の勝茂も一緒にして「松原神社」て改称した。
明治6年(1873)もとからあった本殿の北と南に新らしゅう神殿ば造って、南殿に10代藩主鍋島直正(ほら直ちゃんが出てきた)ば、北殿に前の藩主やった龍造寺家の隆信・政家・高房ば祀った。
大正12年(1912) 2年前に死んどんなった閑叟さんの後の11代藩主鍋島直大(なおひろ)ば、これも一緒に祀ることにした。直大は佐賀藩最後の藩主やった。
昭和8年に佐嘉神社が造営され、松原神社南殿の、直正ば遷座した。昭和23年、同じく南殿の直大の霊も佐嘉神社に遷座し南殿は廃止した。昭和38年、松原神社ば改築し、中殿・北殿ば一つにした。これが現在の本殿ていう訳。
で、いま松原神社には誰が祀られとるかていえば、主祭神が鍋島直茂で、ほかにぞろぞろっと、鍋島清久(直茂の祖父)、彦鶴姫命(直茂の内室)、鍋島勝茂(直茂の子)、龍造寺隆信(旧家の祖)、龍造寺政家(隆信の子)、龍造寺高房(政家の子)て、云うわけ。
整理すると松原神社には佐賀藩の初めのほう、佐嘉神社には終わりのふたり、ていうことになる。
松原神社と佐嘉神社は別の神社として運営されとったバッテン、昭和36年(1961)からは、同じ敷地の中にあっち向きこっち向きおんなっても運営は一本化されとるとゲナ。
松原社陶製鳥居
明治22年(1889)岩尾久吉・金ヶ江長作・峰熊一
日本に二つしかない、て言われとる陶器製の鳥居が有田とここにある。覆い屋根がついとって、かなり大事にされとる。有田にある陶山神社鳥居と同じ制作者によるもので、制作年代も近接していることなどから、同じ型で造られた姉妹作ではなかかて考えられとる。
(陶山神社については「九州遺産」の佐賀の項で取りあげとります)
有田焼の元祖
肥前陶磁器は、17世紀初頭から始まっとって、豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、多くの藩が陶工ば日本へ拉致して来とるごと、鍋島直茂も何人か朝鮮の陶工ば連れて帰っとる。
その中の一人が李参平(りさんぺい)。
彼は元和2年(1616)に有田の泉山で白磁鉱ば発見し、そこい窯ば開いて焼いたとが、日本初の白磁で有田焼て云われるごとなった。
杏葉紋(ぎょうようもん)
鍋島家は、初めからやったかどうか分からんバッテン、杏葉(ぎょうよう)紋。
足利時代に藤原氏秀郷一統の大友、藤原季家一統の龍造寺、鍋島がこれば用いとったていう。
浄土宗で杏葉ば寺紋とする寺が多か。これは宗祖・法然上人が大友一族の出身やったケン、て伝えられとる。 (丸に抱き杏葉)
大友宗麟が好んで用いた紋バッテン、宗鱗と戦うた鍋島家が戦勝記念に杏葉ば奪い取ったていう話も残っとる。
佐賀の七賢人
江藤新平(えとう しんぺい)
明治政府で明治4年(1871)に廃藩置県ば実行した。1872年に司法卿、1873年には参議に就任しとったとバッテン、明治7年(1874)征韓論で政府と意見が合わず下野の後、佐賀の乱で敗れ、刑死。
大木喬任(おおき たかとう)
大隈・副島・江藤らとともに上京し、東京府知事などば務めた。東京奠都にも尽力した。明治4年(1871)に文部卿として学制ば制定。明治9年(1876)には神風連の乱、同12年(1879)の萩の乱の事後処理に当たった。明治13年(1880)には元老院議長にまでなった。
大隈重信(おおくま しげのぶ)
明治6年(1873)参議兼大蔵卿になる。明治15年(1882)東京専門学校(いまの早稲田大学)ば開校した。明治31年(1898)には内閣総理大臣にまでなった。
佐野常民(さの つねたみ)
今の佐賀市川副町の生まれ。安政2年(1855)に日本初の蒸気機関車模型ば完成させた。明治13年(1880)大蔵卿に就任。日本赤十字社ば作った。
島義勇(しま よしたけ)
安政2年(1856)から2年間、北海道と樺太ば探検・調査。明治2年(1869)に北海道開拓使主席判官に就任して、札幌のまちづくりの指揮ばとった。明治4年(1871)には、秋田県令(現在の秋田県知事)までしとったとバッテン、明治4年(1871)に佐賀の乱で敗れ、江藤新平といっしょに処刑された。
副島種臣(そえじま たねおみ)
1828年に今の佐賀市に生まれる。明治2年(1869)に参議、明治4年(1871)に外務卿、明治24年(1891)に枢密院副議長になり、明治25年(1892)には第1次松方内閣で内務大臣ば務めた。
鍋島直正(なべしま なおまさ・閑叟)
天保元年(1830)に佐賀藩の第10代藩主となる。武雄領主鍋島茂義の影響ば受けて開明政策ば採用し、天保5年(1834)には佐賀城下に医学館、嘉永3年(1850)には反射炉ば建て、科学技術の進歩ば計ったことは、さきに書いた通り。
こげんして見ると、日本のいちばん大事なときに、佐賀はよか人材ば輩出しとる。
そしていまは、佐賀には「がばい ばぁちゃん」がおる。
上・一見して古いと分かる狛犬さんたち。
下・神社をめぐらす堀割
佐嘉神社の境内には閑叟さんが力ばいれて、開発させなったアームストロング砲が、ドーンと置いてある。
上・佐嘉神社に飾られとる佐賀藩の反射炉と工場の図。佐賀市長瀬町の日新小学校校庭内には反射炉の記念碑がある。
下・境内にはアームストロング砲のレプリカがあるが、12月には佐嘉神社の前で堀へむかって大砲をぶっぱなす会がある。