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佐賀の乱の激しさ物語る弾痕          「佐賀県」の目次へ

 佐賀城(さがじょう)は別名ば沈み城ていう。

 どうしてかていうたら、平地にあるため、城内が見えんごと土塁にはマツやクスノキが植えられとった。
 離れて見たら、城が木の中に沈み込んで見えたケン沈み城。

 もうひとつは江戸時代から、城下と城内には掘割が縦横に張り巡らされとって、もしも攻撃されたときは八反井樋と今宿江ばせき止めたら、主要部以外は湖水化して、敵の攻めば食い止める仕組みになっとったケン「沈み城」ても呼ばれてきた。

  江戸時代の初めに完成し、外様大名やった佐賀藩鍋島の居城やった。
 
 
明治時代初期に起こった佐賀の乱で、本丸を始め大半の建造物は焼けて無うなった。

 そやケン、福岡の舞鶴城といっしょで「天守閣跡」はあっても、天守閣はなかと。

 鯱の門と続櫓のみが残っとるだけ。そしてこのふたつが国の重要文化財に指定されとる。

 その鯱の門には佐賀の乱で受けた弾痕がいっぱい残されとる。

 佐賀の乱ちゃなんな ?

 維新後の明治7年(1874)に、江藤新平と島義勇がリーダーに担がれて、佐賀で起こしたクーデターやった。明治新政府に不平ば持つ士族たちの大規模な反乱やったとタイ。佐賀の役、佐賀戦争てもいう。







鯱の門にだんだん近づいていくと、佐賀城攻防戦の時の銃弾が、柱のあっちこっちにめり込んで残っとる。
 

 江戸城ば無血開城した西郷の、明治新政府で果たした最大の功績は版籍奉還と廃藩置県。先祖伝来の土地と権限ば政府に全て返上するていう廃藩置県の断行に成功した明治政府は、これで政権基盤ば磐石なものにしたとバッテン、武士の特権ば奪われて収入が不安定になった士族たちは納まらん。

 西郷が云いだした征韓論は、そげな武士の不満ば、外部にそらすていう意図もあったとやが、岩倉使節団グループの(岩倉・大久保・木戸など)の反対意見が通り、明治天皇もその意見ば承認しなったもんやケン、意見の通らんやった西郷隆盛、
江藤新平、板垣退助たちは参議ば辞めて野に下った。

 当時、追い詰められた士族たちは、各地で士族結社ば組織して自己防衛ば図ろうてしとった。佐賀もその例外ではのうて佐賀城下も騒然としとった。
 帰郷して士族の鎮圧に当ろうて思うた江藤には、反乱に加担する気持ちなどまったく無かったとバッテン、彼が東京ば離れた翌14日に、岩倉具視の暗殺未遂事件が起こってしもうた。

 これにショックば受けた政府は神経過敏になり、佐賀県の異常事態と江藤の帰郷ば勘ぐって、敏感に反応した。
 内務卿に就任したばかりの大久保利通は、さっそく佐賀県令ば強硬派の岩村高俊に代えて佐賀の治安回復ば命じた。

 その矢先、憂国党の士族が官金預かり業者である小野組(いまでいうたらサラ金)に、金ば貸せておしかけ、店員が逃げだすていう事件が起り、これが即、県令の岩村高俊から内務省に電報で通知されたもんやケン、政府はあわてて熊本鎮台司令長官谷干城(たに たてき)に佐賀士族の鎮圧ば命令した。

 こっから「佐賀の乱」が始まったていう訳タイ。

 
鯱の門の大棟の南北には、御用鋳物師谷口清左衛門による「鯱」が乗り、鍋島35万石ば誇示しとる。鯱云うたら、姿は魚バッテン、頭は虎。尾ひれは常に空向いとるケン、しゃっちょこ立ちの語源になっとる。二字で書くと鯱鉾。

 江藤新平はよう、佐賀の乱ば引き起こしたと張本人のごといわれるバッテン、彼は、この暴挙ば止めさせろうて思い佐賀城下へ入ったていう。しかし、江藤は島から、既に政府が佐賀士族討伐の方針であることば聞き、そんなら戦わないかんタイ。て云うことになったごたる。

 2月15日には熊本鎮台兵が佐賀旧城内の県庁に到着した。これば知った、士族たち(征韓党と憂国党)は県庁ば攻撃しかかった。18日岩村たち政府軍は、多数の死傷者ばだしながら県外に逃げた。鯱の門の弾あとはは、この攻防戦の時のもの。

 19日、政府は佐賀県下の暴徒ば征討するための命令ば布告して、総計1万人に達する政府陸海軍ば出動させた。そして大久保が直接指揮する東京、大阪の鎮台部隊が、ぞくぞくと九州に到着した。佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。

 政府軍は、
朝日山(いまの鳥栖市、BSゴルフ場のとこ)方面へ野津鎮雄少将の部隊ば、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊ぱ前進させた。朝日山方面は激戦のすえ政府軍に突破されたが、三瀬峠では終始、朝倉尚武の佐賀軍が、峠の高所に陣ば敷き、地の利の良さで善戦ば続けとった。

 朝日山ば突破した政府軍も中原付近まできたところが、再び佐賀軍の激しか抵抗におうて、壊滅寸前まで追い込まれとった。しかし、ここで政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒ば励まして戦い、やっと勝ったていうありさまやつた。

 しかし、大久保利通直属の近衛兵や鎮台兵などが次々と戦線に投入されたら、佐賀軍は次第に劣勢となる。江藤本人が前線に出た田手での戦闘も敗退した。23日この敗退で勝機ば失ったと見た江藤は、これ以上の抵抗は犠牲者と罪人ば増やすだけやケンて、征韓党ば解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力ば求めるため戦場ば離脱した。

 この後、政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

 2月25日、政府軍が佐賀城下に迫ると島義勇は佐賀で討ち死にするつもりやったけど、実弟の副島義高が「官軍はオレたちが防ぐケン、再起ば計れ」いうて無理矢理脱出させた。島は、島津久光ば頼って鹿児島へ向うたバッテン、3月7日に鹿児島で捕縛された。

 27日政府軍は総攻撃開始。28日憂国党が休戦交渉したバッテン、政府軍は拒絶。
 3月1日、大久保内務卿と政府軍、佐賀城に入城。
 江藤新平は、宇奈木温泉で湯治中の西郷隆盛に面会して支援ば頼んだバッテン、西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐へ向こうたけど、すでに手配書が廻っとって、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛された。

 江藤は東京での裁判ば望んだとやが、大久保は急いで設置した佐賀臨時裁判所で、判事河野敏鎌に審議ば行わせ、わずか2日間の審議で、江藤と島ら11名に死刑判決。即日処刑。江藤と島はさらし首にされた。

 江藤たちの裁判は、当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も与えられんままやったていう。
 明治政府の司法制度ば作り上げた江藤当人が、部下やった河野にこげな裁判ばされて口惜しがったていう。

 佐賀の乱の慰霊碑は、地元有志によって大正年間に建立され、佐賀市水ヶ江にある。

 明治維新の士族の反乱は、佐賀の乱では本格的に組織化された国内戦争となったバッテン、その後、明治9年(1876)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱などの反乱が続いとる。

 明治10年(1877)には鹿児島県で私学校生徒やった薩摩士族が西郷ば担ぎ出して、最大規模の内線ていう西南戦争が起こるとバッテン、これも士族側の不満が爆発したもんやった。

 一方、非情に対処せざるをえんやつた政府側の大久保はていうと、明治11年(1878)赤坂御門の近くで、旧加賀藩士の島田一良ら6名の刺客に襲われ「無礼者っ!」て一喝ば残し、前後から刃を受けて倒れた。
 あっけなく暗殺されてしもうた大久保利通、享年49歳やった。

 四民(士農工商)平等ば目指した明治政府で、こと思いと違うて士族反乱(佐賀の乱、西南戦争)の首領に担ぎ上げられてしもうた江藤や西郷たちは、日本が近代国家へ脱皮するため犠牲者やったとかも知れん。有能やった西郷やら大久保やら江藤がもし死んどらんやつたら、その後の日本はうんと違うとったていう。

 どっちが善し悪しじゃのうて、みんな新か日本ば作るために、命賭けた人たちやった。

 佐賀城・鯱の門に戻る。
 佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としとった村中城ば改修・拡張したもの。

 九州北部で威張っとった龍造寺隆信は天正12年(1584)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これば機に龍造寺の家臣やつた
鍋島直茂が実権ば握った。

 江戸幕府から正当に佐賀藩主として認められた後の、慶長7年(1602)本丸の改修ば始め、直茂の計画ば引き継いで、次の藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611)に完成させた。
 内堀の幅は80mにもおよぶ広壮なもんで、5層の天守も建造されとったゲナ。

 しかし、この城は何回も火災に見舞われとると。特に享保11年(1726)の大火では天守以下本丸建造物の大半ば焼失したていう。
 それで藩政は享保13年(1728)完成した二の丸ば中心に行われとったらしか。

 更に天保6年(1835)の火災では、その二の丸も焼失。これじゃあどうしようもなかケン、むりやり資金ば都合して、本丸再建が行われやっと藩政は本丸御殿に移ったていう経緯がある。

佐賀城歴史公園の一角にある天守閣の跡の碑。

 現存する鯱の門・続櫓は天保9年(1838)この再建のときに完成したもんて云われ、同時に立てられた本丸御殿は、明治維新以後、裁判所や学校として利用された。なお、天守閣は享保の火災以後再建されずそのままになっとる。

 いまはどうかていうと、城の跡には県庁、合同庁舎、放送局、美術館、博物館、小中高の各学校、佐賀城公園など公共施設が集中しとって、政治・文化の中心地になっとる。

 本丸御殿の一番奥にあり天保期の建物と見られる「御座の間」は鍋島直正の居室で、一時移築されとったとバッテン、平成16年(2004)本丸御殿ば復元した佐賀県立佐賀城本丸歴史館が完成したとき戻ってきて、平成13年(2001)市の重要文化財に指定された。

 場所・佐賀市城内。長崎自動車道ば大和ICで下り、左折して国道264号線ば8km一直線に南下。与賀町信号で左折。600mの郵便局前信号ば右折。堀ば渡って600m直進すれば左。国道34号線からやったら、佐賀市入口の佐賀バイパス分岐「兵庫町」信号で左をとり、東いちょう通りを約6kmで郵便局前信号を左折。          取材日 2006.05.20

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