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便利になったけん幸橋オランダ風やけんオランダ橋   「長崎県」の目次へ

 その昔平戸城は、鏡川と戸石川で城下町と隔てられとって、往来には渡し舟ば使わないかんやった。

「こらあ、不便バイ」いうことで、寛文10年(1669)、第29代平戸藩主
松浦鎮信(しげのぶ)が木橋ば架け「便利ぃなって、ようなったぁ」いうことから、幸(さいわい)橋て呼ばれるようになったていう。

 いまの橋は、元禄15年(1702)、30代藩主
松浦棟(たかし)が命じて、これば石橋に改築したもんゲナ。

 8ヶ月の工期と銀15貫かかった。

 松浦党と平戸藩

 長崎県北部の豪族やった松浦党からのし上がってきた松浦隆信(たかのぶ)は、肥前北部と壱岐を領地とした戦国大名のひとりにまでになった。

 その子の鎮信(しげのぶ・法印)は、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐のとき、水軍ば出して協力したもんやケン、領地の北松浦郡・壱岐ば安堵された。

 ところが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、今度はころっと東軍について徳川家康から6万3千石の領地ば安堵され平戸藩は生き延びとうとタイ。時代の流ればよう読んだていうか、世渡り上手ていうか、節操のなかていうか。

 寛永18年(1641)4代鎮信(しげのぶ・天祥)のとき、藩士とオランダ商館員がトラブルば起こしたとがきっかけになって、オランダ商館が平戸から長崎に移された。ほんなこたぁ、そうじゃのうして、幕府は貿易の旨か汁ば天領の長崎に持って行きたかったとタイ。

 石橋を架ける技術は、平戸オランダ商館ば建てるときに、参加しとった石工の豊前(とよさき)が、石造倉庫の技法ばおぼえて、地元の石工たちに教えたて云われとる。別名「オランダ橋」ていわれるとは、このことによる。

 もともと平戸城に入る門前橋としての役割があり、橋のそばには正徳5年(1715)に亀岡城再築城のおりに造られた幸橋御門が建っとった。この御門は昭和59年(1984)に復元され、現在では平戸のシンボル的存在となっとる。

 石造単アーチ橋で橋長は19.26m。幅員5.12m。昭和53年(1978) 国の重要文化財に指定。

 これで藩財政は大きな痛手ば被り、藩の内政ば立て直さないかんごとなった。検地ばし直したり、家臣の給与ば知行制から俸禄制へと切り替えたりおおごとばしとんなる。

 5代藩主棟(たかし・雄香)は外様大名でありながら、奏者番兼寺社奉行になったバッテン、これに伴う出費と亀岡城(平戸城)ば作り直したもんやケン、藩財政はまたまた苦しゅうなってしもうた。幸橋もこんとき石橋にしとんなるとタイ。

 9代清(きよし・静山)は大変タイ。歴代で最大となる「寛政の改革」ば断行せないかんごとなって、財務の大幅な改革ば実行した。また、彼は全278巻の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』ば書いた風流人としても有名タイ。

 
 12代詮(あきら・心月)の時代に幕末ば迎える。藩論は倒幕に傾き、慶応4年(1868)戊辰戦争では、官軍方へ参加して奥州まで転戦した。そして彼が最後の藩主となった。明治4年(1871)廃藩置県により、それまでの領地は平戸県となりのち長崎県に編入された。

 明治17年(1884)、松浦家は伯爵となり華族に列せられなった。源氏渡辺綱に始まる、海賊がご先祖さんの、どこまでも世渡り上手な一家やった。

上・肥後の種山石工とはひと味違う切石ばキッチリと並べた石組み
左・切石をモザイクに並べた橋の表面と正面に見えるのは、野面積みの壁と「幸橋御門」

 場所・平戸市。平戸大橋ば渡りきったら、そのまま国道383号線ば平戸市街に入っていく。平戸城(亀岡公園)入口を右に見て下り、新町の信号ば右折。300mほどで右手の川にかかった幸橋が見えてくる。 取材日 2008.03.24

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