神功皇后が裂田の溝ば掘らせるときに築堤させたていう一の井手は、八十三間(約150m)もあり,当時筑前国最大の井堰やったて「筑前風土記」に貝原益軒も書いとる。
しかしこの一の井手もたびたび水害ば被る。最近では
昭和24年8月10日,時間雨量は2921m,日雨量は1367mmていう空前の雨量に達したため,那珂川は大氾濫ば引き起こした。その時決壊した井堰は昭和27年に一部改修され,昭和43年に全堤の改修が行われた。
昭和63年にも改修が行われ,現在の可動堰になった。
裂田神社の西にむかしから迹驚岡(とどろきのおか)ていうとがある。安徳天皇の行宮が置かれたところと伝えられ、のちに御所ケ原、いまは安徳台て呼ばれとる。
安徳天皇いうとは、平の清盛の娘、徳子と高倉天皇の間に生まれた御子タイ。源平の争乱が起こっもんやケン、平の一門は、6歳やった安徳帝ば奉じて京都から九州博多へ都落ちばした。
そして、ここ那珂川の迹驚丘にあった原田種直の館ば行宮(仮の御所)として使うたて伝えられとる。
この後さらに、四国屋島へ向かい、壇ノ浦の戦いで源氏にひちゃがちゃやられ入水自殺しなったとは日本史にある通り。安徳帝いうたら悲劇の代名詞になっとる。
↑↑裂田神社の側ばぐるっと回って
←安徳のほうさい向こうていく。
「那珂川」の由来・歴史
「後漢書東夷伝」や「魏志倭人伝」によれば、弥生時代から古墳時代にかけて、福岡市・春日市・那珂川町あたり一帯は「奴国」(なのくに)ていわれとった。
そのうち那珂川流域一帯ば「儺縣」(なのあがた)ていうようになり、「儺縣の河ていう意」で那珂川 ていうたらしか。
那珂川は、ヤマト王権の時代に至っても那津官家(なのつのみやけ)が置かれるなど対朝鮮半島との外交、交易などからしっかり重要な河川やったに違いなか(那珂・ここシャレ)。
中世には、那珂川町の中心部に岩門(岩戸)荘園がおかれ、 少弐氏等が支配しとった。
那珂郡は東西2郷に分かれ、那珂川町一帯は「那珂東郷」に属し、那珂川沿いの今光・片縄から川上の安徳・西隈に至る12村ば「岩戸河内」て総称しとった。岩戸ていう地名は今でも残っとる。
那珂川の流域には、古い時代から現人神社ば祀った海人が住みついとったらしか。だけんいまでも産土神は現人神社。
江戸後期になると、中原大庄屋のもと23村があり、それが明治22年の町村制施行に伴い、南畑村・岩戸村・安徳村となる。
昭和31年、町村合併促進法により、3村は合併し、那珂川町となった。
那珂川町
一の井手から取水した裂田の溝は・・・
そのまま300mほど国道385号とともに北上し、山田・安徳地域ば北東へ流れる。この区間では用水路のおかげで水田と住宅が広がり、水路沿いの公園が2か所設けられとる。
またこの付近に裂田神社もある。安徳ば抜け、仲丸1丁目のあたりから住宅地に入る。
五郎丸4丁目で県道580号線ばくぐり、100mほど進み北西へ。住宅地の中ば流れ、安徳小学校の前ば通ったところで北に向きば変え、そこからは那珂川町の中心地ば通る。
松木3丁目で西に向き、続いて五郎丸1丁目で北に、今光4丁目で再び西に転じ、今光4丁目の青葉保育園のあたりで那珂川に合流し終点となる。
言葉で説明するとややこしかケン、地図ば参考にしちゃんしゃい。地図なら一目で分かる。
中国で書かれた三国志は3世紀のもんで、日本でいうと、まぁだ神代の時代。その中の魏志倭人伝の項に「朝鮮から海を渡って対馬 壱岐を経ていくと伊奴国に出る。ここは代々王がおりすべて女王国に属し・・」とある。
女王国いうとは邪馬台国のことやろう。邪馬台国の女王は、中国や朝鮮に対する渉外機関として、糸島に出先機関ば置いとったことが分かる。
その大切さは、二、三百年後の大和朝廷になっても、伊奴国の代わりとして那の津に「国の宮家」ば残しとったことでもよう分かる。
福岡市南区の三宅小学校の校庭の片隅に小さな森がある。古びた社の前に手洗鉢があって、この石は千四百年のむかし、那の津の浜辺にあった官庁(宮家)の礎石のひとつやった、ていわれとる。宮家があったケン、いま、字は違うバッテン、三宅ていいよると。
当時の海岸線はいまの三宅付近まで、入り込んどったて思われるケン、それより三百年も前の神功皇后の頃の海岸線は、那珂川町の近くまで入り込んどったと考えてもおかしゅうはなか。