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神功皇后がいいだして 武内宿禰が下請け    「福岡県」の目次へ
  日本疏水百選 那珂川町


 
裂田の溝(さくたのうなで)は、福岡県筑紫郡那珂川町にある灌漑用に作られた用水路のこと。日本最古の農業用水路として知られ、疏水百選にも選ばれとる。

 なんで裂田の溝か?
「日本書紀」巻第九の「神功紀」によれば,仲哀9年(西暦なら200年)神功皇后(じんぐう こうごう)が新羅出兵の際,現人神社の神に守って貰うて勝利でけたケン、そのお礼に神田開発ば行いなった。

 那珂川の取水堰の「一の井手」から荒れ地に灌漑用の溝ば掘りよったところ、迩驚岡(とどろきのおか)の辺りで大きな岩に突き当ったもんやケン、工事が一時中断してしもうた。

 そこで皇后が「なんとかせろ」て部下で恋人の武内宿禰(たけのうちのすくね)に命じなったとタイ。

 宿禰がほかによか工夫ば思いつかんもんやケン、ただひたすら天に祈りば捧げたところ、なんと雷が落ちてきて邪魔しとった大岩が裂けてしもうたやなかね。

 お蔭で再び工事ば行うことができた、ていう故事から「裂田の溝」て呼ばれるようになっとうと。

 現在その場所には裂田神社(さくたじんじゃ)ていう神社があって神功皇后が祀られとって、落雷によって裂けたていう岩もある。周囲にある遺跡の発掘状況から、実際に造られたとは弥生時代との説もあるケン、ほんなこたぁよう分からんバッテン、なんせ1800年も昔のこと、分からんともロマン、ロマン。

↓ ま、どこばどげん掘んなったとか地図ば見て確認しといちゃり。左下の一の井手がスタート

 神功皇后が裂田の溝ば掘らせるときに築堤させたていう一の井手は、八十三間(約150m)もあり,当時筑前国最大の井堰やったて「筑前風土記」に貝原益軒も書いとる。

 
しかしこの一の井手もたびたび水害ば被る。最近では
 昭和24年8月10日,時間雨量は2921m,日雨量は1367mmていう空前の雨量に達したため,那珂川は大氾濫ば引き起こした。その時決壊した井堰は昭和27年に一部改修され,昭和43年に全堤の改修が行われた。
 昭和63年にも改修が行われ,現在の可動堰になった。

 裂田神社の西にむかしから迹驚岡(とどろきのおか)ていうとがある。安徳天皇の行宮が置かれたところと伝えられ、のちに御所ケ原、いまは安徳台て呼ばれとる。

 安徳天皇いうとは、平の清盛の娘、徳子と高倉天皇の間に生まれた御子タイ。源平の争乱が起こっもんやケン、平の一門は、6歳やった安徳帝ば奉じて京都から九州博多へ都落ちばした。
 そして、ここ那珂川の迹驚丘にあった原田種直の館ば行宮(仮の御所)として使うたて伝えられとる。

 この後さらに、四国屋島へ向かい、壇ノ浦の戦いで源氏にひちゃがちゃやられ入水自殺しなったとは日本史にある通り。安徳帝いうたら悲劇の代名詞になっとる。

↑↑裂田神社の側ばぐるっと回って
←安徳のほうさい向こうていく。

 「那珂川」の由来・歴史
 「後漢書東夷伝」や「魏志倭人伝」によれば、弥生時代から古墳時代にかけて、福岡市・春日市・那珂川町あたり一帯は「奴国」(なのくに)ていわれとった。

 そのうち那珂川流域一帯ば「儺縣」(なのあがた)ていうようになり、「儺縣の河ていう意」で那珂川 ていうたらしか。

 那珂川は、ヤマト王権の時代に至っても那津官家(なのつのみやけ)が置かれるなど対朝鮮半島との外交、交易などからしっかり重要な河川やったに違いなか(那珂・ここシャレ)。
 
 中世には、那珂川町の中心部に岩門(岩戸)荘園がおかれ、 少弐氏等が支配しとった。
 那珂郡は東西2郷に分かれ、那珂川町一帯は「那珂東郷」に属し、那珂川沿いの今光・片縄から川上の安徳・西隈に至る12村ば「岩戸河内」て総称しとった。岩戸ていう地名は今でも残っとる。

 那珂川の流域には、古い時代から現人神社ば祀った海人が住みついとったらしか。だけんいまでも産土神は現人神社

 江戸後期になると、中原大庄屋のもと23村があり、それが明治22年の町村制施行に伴い、南畑村・岩戸村・安徳村となる。
 昭和31年、町村合併促進法により、3村は合併し、那珂川町となった。

         那珂川町

 一の井手から取水した裂田の溝は・・・
 そのまま300mほど国道385号とともに北上し、山田・安徳地域ば北東へ流れる。この区間では用水路のおかげで水田と住宅が広がり、水路沿いの公園が2か所設けられとる。

 またこの付近に裂田神社もある。安徳ば抜け、仲丸1丁目のあたりから住宅地に入る。

 五郎丸4丁目で県道580号線ばくぐり、100mほど進み北西へ。住宅地の中ば流れ、安徳小学校の前ば通ったところで北に向きば変え、そこからは那珂川町の中心地ば通る。

 松木3丁目で西に向き、続いて五郎丸1丁目で北に、今光4丁目で再び西に転じ、今光4丁目の青葉保育園のあたりで那珂川に合流し終点となる。

 言葉で説明するとややこしかケン、地図ば参考にしちゃんしゃい。地図なら一目で分かる。

 中国で書かれた三国志は3世紀のもんで、日本でいうと、まぁだ神代の時代。その中の魏志倭人伝の項に「朝鮮から海を渡って対馬 壱岐を経ていくと伊奴国に出る。ここは代々王がおりすべて女王国に属し・・」とある。

 女王国いうとは邪馬台国のことやろう。邪馬台国の女王は、中国や朝鮮に対する渉外機関として、糸島に出先機関ば置いとったことが分かる。

 その大切さは、二、三百年後の大和朝廷になっても、伊奴国の代わりとして那の津に「国の宮家」ば残しとったことでもよう分かる。

 福岡市南区の三宅小学校の校庭の片隅に小さな森がある。古びた社の前に手洗鉢があって、この石は千四百年のむかし、那の津の浜辺にあった官庁(宮家)の礎石のひとつやった、ていわれとる。宮家があったケン、いま、字は違うバッテン、三宅ていいよると。

 当時の海岸線はいまの三宅付近まで、入り込んどったて思われるケン、それより三百年も前の神功皇后の頃の海岸線は、那珂川町の近くまで入り込んどったと考えてもおかしゅうはなか。

 現人神社(あらひと)いうとは、底筒男命(そこつつのお みこと)・中筒男命(なかつつのお みこと)・表筒男命(うわつつのお みこと)の三神ば祀った神社。この三神はていうと、神代に遡り伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉の国で受けた穢れば祓うため禊(みそぎ)ばしなった時誕生した神で、通常住吉三神ていわれとる。

 もともとが海の神様で、1800年前神功皇后が大陸遠征ばしなったとき、この三神が 荒れ狂う海原で苦労しよった皇軍の船の舳先に姿ば現して、お祈りばして玄界の逆巻く波風ば鎮め、船団と皇后の身ば守ったていう。

 遠征から無事帰還した神功皇后は神恩に感謝し、神さまが現世に姿ば現しなったことから「現人大明神」ていう尊号ば授け崇拝しなったとゲナ。

 福岡の住吉宮もあとでここから分霊され、筑前一宮になっとんなる。それの元祖がここていう訳タイ。住吉三神ばお祀りする神社は、全国津々浦々に二千余社ば数えるバッテン、ぜーんぶここの現人神社から始まっとうとは那珂川のもんもよう知らん。

 しかし、天正十四年(戦国時代)高橋紹運が、この地ば治めとった頃、島津軍との戦乱のため戦火ば蒙り、社殿・神宝・古文書・縁起に至るまで全部焼けてしもうた。
 祀官たち三十余名も戦乱で命ば落としたていう。

 佐伯刑部の子松千代(当時七歳)がひとり生き残り、のちに祀官ば継ぎ今に至っとる。

 正徳4年(1714)、黒田靭負重実が領主やったとき、村人たちが復興ば図り、いまの神殿・拝殿・大鳥居が再建されたていう。

 明治5年の太政官布告で、現在の現人神社に改称。天地ともに鎮めの祖神として仰がれ広く崇敬ば集めとる。

         現人神社

 場所・福岡県筑紫郡那珂川町。福岡市南区大橋から「けやき通り(国道385号線)」ば真っ直ぐ南へ約5キロ走ると那珂川町。中心の「西隈」から1キロ南下すると「山田」の信号に出る。直進400mで左手に「伏見神社」 右手の那珂川に「一の井手」堰が見えてくる。                 取材日 2008.5.2/2013.7.11

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