このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
原爆の爆風でやられ片足で立っとる鳥居 「長崎県」の目次へ |
原爆の被爆建造物 |
原爆に耐えて残っとる山王神社二の鳥居 |
祀られとる神は中央が 山王神社がでけたとは寛永15年(1638)島原の乱ば鎮圧するため長崎に来とった松平信綱が、浦上街道ば通りがかったところ、その景色が近江の比叡山に似とって、地名も比叡山の鎮守である山王権現の鎮座地坂本と共通するもんやケン、山王権現の勧請ば思い立ち、長崎代官と計って「山王神社」として創祀されたて伝わっとる。
皇大神宮のほうは浦上村のキリシタンへ改宗ば促す宗教対策の一環として、1868年に今の山里小学校の地に伊勢神宮ば勧請して「皇大神宮」として創祀されたとがはじまり。 神社の二の鳥居は原爆の爆風により片方の柱が吹き飛んだ状態で立っており、現存する原爆の被爆建造物となっとる。 その後の調査により、両鳥居は爆風の向きと平行して建っとったケン、全壊ば免れたといわれとるバッテン、昭和37年(1962)に一の鳥居も交通事故で倒壊し、跡地に案内板が設置されるだけになってしもうた。 山王神社(さんのうじんじゃ)は、長崎市にある神社。村社やったとバッテン、県社の皇大神宮(こうたいじんぐう)と合併した。浦上皇大神宮(うらかみ こうたいじんぐう)とも、山王日吉神社(さんのう ひよしじんじゃ)ても呼ばれとる。 長崎市に原子爆弾が落とされたとき、爆心地から約800メートルの地点にあつたもんやケン、被爆し、その跡ば残す一本柱鳥居やら、熱線により裸同然にとなりながらも豊かな緑ば取り戻した楠の木で有名。 本殿は桁行3間梁間2間の神明造風切妻造で屋根銅板葺。 例祭は10月17日で、浦上くんちが奉納される。浦上くんちは「浦上九日」とも書き、元来は山王神社の祭典として明治改暦以前は9月18日に行われとった。また山王神社は古くは3月18日に山王祭ばしよった。 二の鳥居(一本柱鳥居) ↑ 倒壊部分も参道脇にチャンと残してある。 |
山王神社の境内入口に南北に向かい合って立つ2本の楠。 原爆により枝葉は失われ、幹も焼かれ黒焦げ同然となった。被爆後にアメリカ戦略爆撃調査団が撮影した写真では立ち枯れしてしもうとったバッテン、やがて自然に樹勢ば盛り返し、それぞれ大小の支幹から枝ば張り出して東西40メートル、南北25メートルの樹冠ば形づくり、今日でも豊かな緑ば湛えとる。 平成7年(1995)の調査で、大クスが原爆の炸裂により生じた高線量の放射線で、突然変異ば起こしとったことが明らかになった。 原爆生き残りの樹木としての意義が深いケン、昭和44年(1969)に「山王神社の大クス」として長崎市の天然記念物に指定された。 天然記念物になった 2本の楠 ↑ 空洞からは、被爆当時の表面が焼けた石やら瓦礫などが見つかった。爆風で飛ばされて来たとやうか? |
場所・長崎県長崎市坂本 大宰府から九州自動車道・長崎自動車道経由で長崎ICまで136km。1時間半。ETC3,540。長崎IC下りたらそのまま「長崎バイバス・出島道路」ば約4m走って市電「市民病院前」の信号に出る。そのまま直進して出島からは市電といっしょに走り、長崎駅前通過、浦上駅前の先200mの信号で右折。300mで突き当たる。 取材日 2007.12.31 |
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