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実はみっともなか長崎代官の物語        「長崎県」の目次へ
長崎市文化財

サントドミンゴ教会ば壊した後、その上にたてた代官屋敷の遺構ば見て回ることがでける。

 「ランタンまつり」ば見に行って市役所通りば「ぷらぁーぷら」歩きよったら、勝山小学校の前に出た。現役時代には長崎に仕事でよう行きよったケン「懐かしかぁ」て思い、ふと表札ば見たら「桜町小学校」てなっとる。

 「あれっ こらあ勝山小学校じゃなかと ? 」後でしらべてみたら、平成9年に市立の勝山小学校・磨屋小学校・新興善小学校の3校が統廃合されて桜町小学校になっとうとやった。合併後の校名が「桜町小」になったとは、近くに桜町いうとがあって、長崎電鉄の駅も「桜町」 サクラと学校いうたらイメージ的によかケンやろう。

 校門から中ばのぞいてみたら玄関の前に2本の石碑が立っとって「サント・ドミンゴ教会跡」「末次平蔵宅跡」て書いてある。

 昔と違うて最近は、学校の中さい勝手には入られんケン、こそこそ石碑の写真だけ撮って咎められんウチに退散。地図ば頼りに学校ば半周して北の角にあるサント・ドミンゴ教会跡の入り口ば見つけた。

   桜町小学校の玄関先に、「サントドミンゴ教会跡」と「末次平蔵宅跡」の石碑があって目を留めた。

 サント・ドミンゴ教会跡。サント・ドミンゴ教会ちゃなんかいな。その前にサント・ドミンゴちゃなんや ?
 
サント・ドミンゴ(Santo Domingo)いうとはドミニカ共和国の首都の名前げなタイ。バッテン、なしカリブ海の町の名が教会に付いとるとかいね ? 駅長の物好きな好奇心がスタートする。

 1492年にクリストファー・コロンブスが発見する前、ここにはタイノ族いう原住民がおった。コロンブスはこの島ばイスパニョーラ島て名付けとる。

 「1496年、スペイン人が島に定住しだし、サントドミンゴは南北アメリカで最も古か欧州風の都市になっていった。

 コロンブスは、スペイン女王のイサベル1世にちなんで、町の名ばイザベラ (La Isabela) て名付けたとやが、後になってドミニコに敬意ば表してサント・ドミンゴに改名された」て物の本に書いてある。

 これでは駅長は納まらん。「そんならドミニコちゃあなんや ?」「いい加減にしときやい」「いいや中途半端は博多んもんがいちばん好かん」

 聖ドミニコていうカトリックの修道士がおった。1200年頃のこっタイ。本名はドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス。村の名にちなんでドミンゴて名付けられた。

 両親とも土地の名家の出やったていう。おっかさんな、ドミニコが腹に入っとるとき、犬の姿で松明ば銜えて跳び出し「地に火ばつけた」夢ば見たていう。なんか初めから変わっとったとねぇ。

 14歳からパレンシアで神学ば学び、大学の教授にまでなったっちゃが、1206年に時の教皇ホノリウス3世に申し出てドミニコ会ば創設したていう人タイ。

 1221年に死になった後、聖人に列せられとんなる。

 サント・ドミンゴ教会は、慶長14年(1609)にこのドミニコ会の、フランシスコ・デ・モラーレス神父によって、長崎市に建てられた教会ていうわけ。なしドミニコがドミンゴになったとかは分からん。訛ったとやろう。

 フランシスコ・デ・モラーレス神父は、1602年から薩摩で宣教活動ばしよんなったとバッテン、キリスト教の迫害が始まり、薩摩から追い出されなった。

 その際、京泊(いまの薩摩川内市)にあった「ロザリオの聖母聖堂」ば解体して、その木材ば船で運び、長崎に移設したとがこのサント・ドミンゴ教会ていう経緯が分かっとる。

 移設した土地は、当時の長崎代官やった村山等安(とうあん)がドミニコ会に寄進した土地やった。なし代官がキリスト教に土地ば差しだしたとか ?  これはこのあとのお楽しみ。

 ところが5年後の慶長19年(1614)、この教会ばはじめとして、長崎のほとんどの教会、キリスト教の施設は、幕府の禁教令によって壊されてしもうた。

 サント・ドミンゴ教会が壊された後、跡地には村山等安に代わって長崎代官となった末次平蔵(すえつぐへいぞう)が代官屋敷ば建て、その後も続いて高木代官時代の屋敷が建てられとった。


 末次平蔵

 その末次平蔵(すえつぐ へいぞう)いうとは、天文15年(1546年)頃、博多の豪商末次興善(こうぜん)の次男として生まれ、25歳で親父か興した安南・シャムなどとの貿易ば継ぐため長崎に移住。

 この平蔵もひと頃は「ジョアン」ていう洗礼名ば持つキリシタンやったとバッテン、キリシタンが禁止されたら、さっさと棄教して仏教に転宗し、長崎奉行の長谷川権六に協力して逆にキリシタン弾圧に手ば貸した。ていう世渡り上手。

 キリシタンば探し出すため「目明」ば田舎にまで派遣し、徹底的にキリシタンば弾圧したもんやケン「鬼の平蔵」いうて怖れられとった。

 ところが寛永5年(162)にオランダ領台湾行政長官のピーテル・ノイツとタイオワン事件(ノイツ事件)ていうヤヤコシカ事件ば起こし、寛永7年(1630年)に江戸の牢獄に幽閉された。
 そしてその事件とはなんの関係もなかとい、幕臣のひとりによって斬殺されてしもうた。なしか ?  

 幕府のある重臣がクサ、禁止されとるはずの密貿易に手ば出しとることば、平蔵が知っとったケン、口ふさぎやったて云われとる。利権が絡むと陰でコソコソするとは昔も今も官僚の特技。しかも陰湿か。

 平蔵の法名は雲証院殿華岳浄皎居士。

 初代平蔵は横死したバッテン、この平蔵ていう名前は、2代代官末次茂貞・3代代官末次茂房・4代代官末次茂朝も名乗っとる。

 ところが延宝4年(1676年)、4代茂朝のとき密貿易が発覚。一族はみんな処罰され、初代平蔵の墓石も壊して捨てられてしもうた。そんくらい密貿易いうとは、ボロ儲けがでけて止められんやったとやろう。

 のちに子の茂房が平蔵の墓と石の囲いば造ろうとして、長崎市の鶴城本丸跡にある竜頭巌て呼ばれる岩の一部ば切り出そうとしたところ、岩の間から血が滲み出したていう。そげなハナシまで残っとるほど、長崎代官ば巡る人間ドラマは「博多弁でいうとキチャナカッタ(汚なかった)」

 手前は高木屋敷時代の井戸。奥には教会時代の排水溝が二列ならんどるとが確認でけた。教会の周りに屋根付きの回廊が設けられとって、その雨水ば流す溝やったて学者さんたちがいいよんなる。


 平成14年(2002)、桜町小学校の校舎ば建て替えようてしたら、この教会やら代官屋敷時代の遺跡が発見された。長崎の教育委員会が「こらあ日本における江戸時代初期の貴重な教会遺跡じゃケン、大事にとっとかないかん」云いだして、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」ば建て市の文化財に指定した。

 いまでは世界遺産暫定リストに掲載されとる
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のなかのひとになっとるとタイ。

 
フランシスコ・デ・モラーレス神父が薩摩から教会ば移設するとき、この土地ば寄進したとが当時の長崎代官やった村山等安ていうことば先に書いた。

 禁教されとる教会に、幕府直轄地の代官が土地ば差し出すちゃおかしかろうもん。駅長の頭ん中では ? ? ? がくるくると回り出す。

 村山 等安(むらやま とうあん)いうとば、調べて見ないかん。

村山 等安、 16世紀末から17世紀初頭にかけて長崎で代官ば務めていた人らしか。

 村山等安の出は、尾張国のほかに、安芸出身とか、博多の出とも云われとってハッキリせん。
 生年も不詳。

 天正年間(1573〜1592)長崎に流れ着き、金屋町に住んだらしか。才知に長け、弁舌さわやか。しかもポルトガル語にも通じとったていう。

 長崎町衆のひとりとして朱印船貿易商となって、末次平蔵(後で出てくる重要人物)の父・末次興善たちの助けば受け、
呂宋壺(ルソン島で焼かれた陶器。茶器として珍重された)の取引で儲かった。

 そして(ここがポイント)、当時はまぁだ禁止されとらんやったイエズス会に入って洗礼ば受けアントニオて名乗っとった。

 
文禄元年(1592)、文禄の役のときに名護屋に在陣しとった豊臣秀吉に謁見し「長崎の地子銀(じしぎん・地代)として25貫ば納めますケン、直轄地ば預かる長崎代官にしてつかあさい」いうて許可された。

 長崎から地代が入るごとなって喜んだおっちょこちょいの秀吉は、彼の洗礼名アントニオばもじって「等安」ていう名ば与え、以後この名に改めるごと命じたていう。

 だけん土地ば教会に差し出す、なんていうことがでけたっタイ。ひとつだけ ? がとれた。

 秀吉の死後も、長崎は村山等安が代官として支配しとった。

 そして慶長9年(1604)の正月には、イエズス会のジョアン・ロドリゲス神父とともに伏見で徳川家康に謁見し、引き続いて長崎の代官として勤めることば追認してもろうた。

 
その後、等安は呂宋壺の他に生糸・印子・金・鉛・水銀などの貿易も行い、財政難やった島津藩や鍋島藩に金ば貸すほどガッチリ蓄えとつた。

 のぼせ上がった等安は多くの妾ば作り、そのため妻子とケンカが絶えず、また仕事で逆ろうた気に入らんもんば次々に殺したりもした。
 まさに長崎代官いうとば嵩に着て、やりたか放題しよったごたる。

 そやケン、元和4年(1618年)には、とうとう長崎の指導者層グループやら新興商人らと衝突することになり、商人グループのひとり末次平蔵から徳川幕府に「村山代官はキリシタンば擁護し、大坂方とも通じとりますバイ」いうてチクられてしまう。

 大坂方と通じとった嫌疑とは「大坂夏の陣の時、等安が息子のひとりに浪人ば添えて大坂城に石火矢や玉薬を運び込ませた」ていうこと。

 またキリシタンば擁護した疑いいうとは「ドミニコ会系の司祭やった自分の三男が流罪になったとば、密かに長崎港外の高鉾島(神ノ島参照)に逃がした」ていうもんやった。

 なしこげなことば、末次平蔵が知っとったとかていえば、等安の料理人に三九郎いうもんがおって。三九郎の美人の娘がクサ、等安のいうことば聞かんもんやケン、とうとう手打ちにされてしもうたとゲナ。それば恨んで、平蔵にバラしたとタイ。

 疑いば持たれた等安は、調べられた挙げ句、元和5年(1619)に江戸で首ば落とされ、一族も長崎で処刑されてしもうた。ちょっと権限ば持つごとなって、なんでも吾がよかごとでけるて錯覚し、やりすぎたもんは、だいたいこげな結末になる。

 彼の死後、長崎の代官業務は、等安ばチクッて幕府に殺させた末次平蔵政直が継いだ。

上・長崎代官屋敷の門ばマネして作られた桜町小の裏門。
下・昭和56年にプールば作る整地しよって防火用水槽ば壊したら、地面から1mのとこから井戸が出て来た。明治以降、石の板で蓋ばして運動場の盛り土ばしとったケン、そっくり残っとった。直径1m、深さ9.6m。素掘りの井戸で当時のまま見れる代官屋敷唯一の遺構。

 上・左右ともキリスト教の象徴「花十字紋瓦」(十字架の先端が花のごと開いとる) キリシタンの墓碑などによう見られ、ほとんどが長崎で出土しとるバッテン、サントドミンゴ教会跡からは80点もの瓦が発見された。


 
なんか密貿易のハナシばっかしになったバッテン、サント・ドミンゴ教会跡は発掘されて資料館になり、無料で見学がでける。この教会だけじゃのうして、長崎市内で発見されたキリシタン関係資料が展示されとる。

 ガイダンスゾーンには、サント・ドミンゴ教会ば含む勝山町遺跡の年表、土層断面の剥ぎ取りパネル。
 遺構ゾーンでは、教会遺構(石組の地下室、石畳、排水溝、また高木代官時代の井戸などば保存・公開してあって、遺構がどんなもんやったかがわかる。
 映像コーナーでは遺跡の発掘状況や歴史的背景などば、要領よう説明した約4分のDVDが見られる。
 展示コーナーでは、市内出土の花十字紋瓦、キリシタン遺物や教会時代の出土陶磁器が展示され、当時の市内の教会分布図や、遺跡全体の航空写真、時代背景などについての解説パネルもあって、長崎の歴史が理解できるごと考えちゃる。

 なお、サント・ドミンゴ教会の跡地は、末次代官失脚の後、元文4年(1739)から長崎町年寄の高木作右衛門忠与が代官に任命され、以後約百数十年にわたり高木家世襲の代官屋敷(高木屋敷)として続いとった。

上・桜町小の北角にサントドミンゴ教会跡資料館がある。
下・サントドミンゴ教会時代の遺構。大型の石組みででけとって、南側に階段があった。用途不明のこの地下室から「花十字紋瓦」やら陶磁器などの遺物が出土した。。

上・遺跡からは15もの井戸が見つかっとるバッテン、特にこの高木屋敷時代の井戸は、切石ばしっかりと積み上げたリッパなもん。水道なんてなか時代、井戸は生活に絶対欠かせんものやったことが分かる。
下・教会時代に掘られた穴に、末次時代の礎石が重なって現れた。教会ば壊した後、代官屋敷ば建てるときに、一旦石で埋めて平らにしたとやろう。て学者がいう。

 サント・ドミンゴ教会跡のある桜町小学校の近く(市役所の南側)には、古うから興善町ていう町名が残っとって、これは博多の豪商・末次興善(すえつぐ こうぜん)が興したことから来とる。

 
興善の墓(右)・は福岡市博多区御供所町の妙楽寺にあって、この寺には、これも南蛮密貿易がバレて一家全員に使用人まで、14人が磔・獄門になった博多の豪商・伊藤小左衛門(左)の墓もある。
  長崎喧嘩(深堀事件)

 鎖国時代の長崎は,海外貿易の窓口として栄えた。幕府は長崎ば直轄地(天領)とすることで,海外貿易の儲けやら文化ば管理しとった。

 
その天領長崎の港やら町の警護ば担当させられとったとが黒田藩と鍋島藩やった。警備は一年交替やったバッテン、藩にとっては負担の大きか仕事やったごたる。
 特に四郎ヶ島砲台からのいきさつで、長崎の警備と歴史的な縁がある鍋島藩は、長崎市の南、香焼島・伊王島の付け根、深堀(現長崎市深堀町)に飛び地まで持っとって、これば深堀藩ていうた。

 長崎のもんにとっては、町ば守ってくれとるガードマン役バッテン、それば鼻に掛けて威張っとる佐賀んもんとは上手くいっとらんやった。

 元禄13年12月19日(1701) 長崎・本博多町(いまの万才町)にある大音寺坂で、深堀の武士深堀三右衛門・志波原武右衛門と、長崎会所(高木屋敷)の家来とがケンカした。理由は ?

 おりからの雪で足場が悪かったもんやケン、高齢の三右衛門がよろけて、杖ではねた泥が高木家使用人の惣内にひっかかった。

 深堀のふたりは非礼ば詫びたっちゃが、惣内たちはおさまらず口論になった。「まあまあまあ」て町のもんが仲裁に入って一応は収まったとバッテン、夕方になって深堀屋敷に高木の家来10数人が押し寄せ、三右衛門・武右衛門のふたりば「くらしあげたうえに(博多弁で暴行)」大小の刀ば奪うていった。

 こうなったら深堀側も黙っちゃおられん。三右衛門の息子・嘉右衛門以下10名が深堀から長崎へ向かい、合計12名で高木屋敷へ討ち入った。さらにその後9名がかたった(博多弁で加わる)ケン、総勢21名になった。

 殴り込んだ深堀側は、主人の高木彦右衛門と惣内たち家来9名ば殺し「本懐ば遂げて」深堀屋敷へ引き上げた。武右衛門は途中、中島川に架かる鉄橋(くろがねばし)で切腹したていう。

 これなんかに似とろう。そう。
 赤穂浪士の討ち入りタイ。そやケン、当時、全国で有名になった話。

 代官屋敷との全面対決ば怖れた佐賀藩は、深堀屋敷警護のために本藩からも家来・足軽数十名ば派遣してくる始末。長崎奉行は江戸幕府首脳と将軍・徳川綱吉にこれば報告し判断ば仰ぐことにした。
そして、結果は・・・

 深堀側の最初に討ち入った10名は切腹。あとでかたった9名は五島列島へ島流し。

 高木側は高木彦八郎が家財没収の上、長崎五里四方からの追放。そしてこの騒ぎの原因ば作った深堀屋敷へ殴り込んだ高木屋敷の使用人9人は全員斬首。

 長崎の高木屋敷側からいわせると「深堀騒動」、一般的な別名ば「長崎喧嘩」ていう。

 教会の文化的な役割やらの話はせんで、長崎代官たちのツマラン話ばっかしでスンマッセン。

 場所・長崎市勝山町30-1(桜町小学校内)。長崎市役所から「市役所通り」ば東へ100m足らずで左手に桜町小学校がある。学校の東角にある「勝山町」信号ば左折して学校の北角に回り込むとサントドミンゴ教会跡の入り口が待っとる。駐車場がなかケン、どっか近くのパーキングば利用するしかなか。    取材日 2012.02.04

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