5年後、測量が終わって実測計画図がでけた。バッテン、資金不足タイ。分限者の阿蘇の虎屋やら戸次の帆足家に出資ば頼んだけど断られた。俊次郎は祖先伝来の家財ばすべて投げ出し、そのうえ借金までして工事ば頼もうとしたけど相手にしてくれるもんはおらんやった。
明治24年(1891)10月28日、俊次郎は水路建設が実現せんまま、69才で亡くなってしまいなった。死の直前まで「若宮井路ば作って欲しか」て周りの人々に頼んで、息ば引きとんなったて伝えられとる。
若宮井路の鏡水路橋は、濁淵川と県道47号ば跨ぐ石造2連のアーチ橋で、川と道に合わせて造られたケン、左右のアーチの大きさが異なっとるとが特徴。
若宮井路は明治34年に通水してもう100年以上経っとるケン、だいぶ痛んどろうやて思いよったら、朝地町土地改良区では、2006年3月に鏡石拱橋の補修工事ばしとんなる。
普通やったら全部壊して作り替えるとやろうバッテン、非破壊補修補強工法(FE工法)ていうとで水路のなかの古かとこば削り取り新素材で補修したゲナ。これでまあだまあだ100年やそこいらは頑張れるごと長寿命化がでけた。
明治26年(1893) その年は日照りが続いて作物ができんやった。人々は俊次郎の計画ば思い出した。困ってきたら現金なもんで、あげん笑いよったとい急に井路造成の機運が盛り上がって「若宮井路普通水利組合」が設立された。
明治33年(1900) 若宮井路の工事に着手。毎日千人以上が働いていたて伝えらる。1年で年若宮井路完成。通水開始した。
ところが5年後、笹無田川ば越すサイフォンの鉄管(直径1m)が錆びて、破裂してしもうた。そんならいうて木製の橋に造りかえたとバッテン、漏水が激しゅて風が吹いたら危険なため、みんなが資金ば出し合うて石橋ば架けることになった。
大正5年(1916) その石橋、笹無田石拱橋は見事に完成した。ところが、とうしたことかいな、喜びあうとはつかの間で、通水後5日目のこっタイ。大音響ととも石橋が崩落してしもうた。
その音は竹田は勿論のこと、受益地の朝地までも聞こえたゲナ。石橋は幻になつてしもうた。
人々は落胆し、この先どげんなるっちゃろうかて不安にかられた。
慌わてて応急の木橋ば造りなんとか通水は続けたバッテン、このままじゃいかん。また寄付ば募って、石橋の再建にかかる。そしてついに完成した。
1年後の大正6年(1917)5月8日、笹無田川ば跨ぐ大きな石造2連アーチ橋「若宮井路・笹無田石拱橋」がでけあがった。
石拱橋(せっこうきょう)ていうとは、石で造られたアーチ型の橋ていう意味タイ。
笹無田石拱橋は石造二連アーチ橋で、長さ60m。幅員4.0m。高さ30m。径間21.5m。拱矢(アーチの高さ)9.0m。周辺では最も大きな水路橋ていわれとる。
設計者(工事管理者) 竹田市飛田川出身の農業土木技師・工藤虎彦。請負人、臼杵市出身の石工・川野茂太郎。
これで若宮地区にも水が行くごとはなったとバッテン、これからば考えると問題がなか訳じゃなか。
第一に施設が長く条件の悪か場所にあるケン、維持管理が大変タイ。
第二に若宮井路の受益地区での、高齢化が進んどって耕作放棄が年々増えよるケン、今後とも水利組合で維持管理していっきるかが気掛かりになる。
話しが長たらしゅうなったバッテン、これがいまも現役で水ば運びよる笹無田石拱橋タイ。
昭和50年(1975)からは、10年と約5億の金ばかけ、井路の大改修ばした。改修事業竣工記念にいうて伊東俊次郎の記念碑ば建てた。俊次郎が作った計画図面は、いまでも大切に保存されとるゲナ。
平成8年(1996) 笹無田石拱橋が国の有形文化財に登録された。
若宮井路鏡石拱橋
左・二連やけど左右でスパンの巾が違う。
右・要石に「若宮井路」の彫り込みが見える。
上から見た水路橋。
これで巾4m。笹無田川ば越えたところで右折して山の中へと水路は続く。
右下に豊肥線の鉄橋、旧道のいまは使うとらん笹無田トンネル入口が見える。
新笹無田トンネルは、さらにその右にあって、ここには橋とトンネルと道がいくつも重なりあうとる。
上・町道から見上げると橋はスマートで高い。30mいうたら通潤橋より高っかことになる。
左・撮影中に豊肥線の上り九州横断特急が、音もなくトンネルと橋の間ばすり抜けて行った。