このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

角の石柱が20本も林立する佐賀の珍しか石橋     「佐賀県」の目次へ
日本土木学会選奨土木遺産

 栴檀橋(せんだんばし)は、橋ば支える橋脚も橋桁も荒削りの石ば使用した橋で、大正13年(1924)7月に架設されたていうことは分かっとるとバッテン、設計者も施工者も分からん。

 佐賀市神野公園入口の多布施川(たふせがわ)に架かっとる。

 
橋長16.8m、幅員5.0mは、国内最大級の石桁橋ゲナ。橋脚は角柱石で、4列×5ケ所の20本が並んどる。これは珍しか。

 現在、自動車の通行はでけんバッテン、歩行者用として利用されとる。

 なんで栴檀橋なんて洒落た名前のついとるとかていえば、多布施川の両岸は、センダンばはじめ、エノキ、カエデが昔から生えとったけんタイ。

 多布施川は、嘉瀬川本流から石井樋(いしいび)で分流して、旧佐賀市内ば屈曲して流れる。
 延長約9.5km。むかしは佐嘉城の堀の水、また飲料水、日常用水、さらに周辺農村地域の濯漑用水として、みんなの生命線ともいう重要な川やった。

 いまは歴史的水辺公園として整備されとると。

 神野公園いうとは、弘化3年(1846)に造られた佐賀藩主鍋島直正公の別邸で「神野のお茶屋」て呼ばれとった。

 大正12年(1923)に鍋島家から佐賀市に寄贈され、現在、遊園地、動物園、桜で市民のいこいの場になっとると。

 園内には幕末から明治初期にかけて西郷隆盛とともに活躍した江藤新平の銅像も立っとる。

 
鍋島直正(なべしま なおまさ)いうたら、江戸時代末期の、第10代佐賀藩主で、号は閑叟(かんそう)。正室は徳川家斉の18女・盛姫(孝盛院)やった。

 財政が破綻寸前の佐賀藩ば引き継いで、藩政改革に乗り出したとバッテン、前藩主の取り巻きに反対されたり、佐賀城二の丸が大火で全焼するていう危機にあったり、なかなか思うごといかんやった。

 それでも役人ば五分の一に削減するやらして出費ば減らし、陶器・茶・石炭などの産業ば育て、交易にも力ば注いだ結果、その質素倹約ぶり(ようするにケチ)と、経営手腕(ようするに抜け目のなさ)ば「そろばん大名」て呼ばれながらも、藩政ばたて直しなった。

 「佐賀んもんが通った後は草も生えん」て皮肉られるとのルーツはこの人タイ。

 また藩校
弘道館ば拡充して優秀な人材ば育成し登用するなど、教育改革にも積極的やった。

「新らしかもん好き」でも通っとって、西洋の軍事技術の導入ばはかり、精錬方ば設置したりした結果、後にアームストロング砲などの最新式大砲やら、鉄砲の自藩製造に成功しなった。

 蒸気機関・蒸気船までも完成させるなど、先の見えた名君やった。


上・橋脚は石の角柱ば90度ねじって、並べとるケン、丁度、角が水の流れの方ば向いて「水切り」の役目ばしとる。駅長が作ったっちゃ、こんくらいのことは考えるやろうバッテン、ゴミも引っかかりにくうて、よか工夫タイ。
中・橋の正面が(写真でいうと左手)神野公園の入口で、奥の方が多布施川の上流になる。
下・川の両わきには楠やら(佐賀の県木)栴檀の木が生えて木陰ば作っとる。

右・隔林亭(かくりんてい)は鍋島直正の茶室として建てられとったとバッテン、老朽化のため昭和35年(1960)に解体。20数年後一枚の写真と古図ばもとに、平成5年に復元されとうと。これがあるケン、神野のお茶屋タイ。

 栴檀は、ムクロジ目・センダン科の植物。西日本ば含むアジア各地の熱帯・亜熱帯域に自生する落葉高木。
 「栴檀は双葉より芳し」(せんだんはふたばよりかんばし)の諺でよく知られとるバッテン、諺のはセンダンではのうて、親戚に当たるビャクダン(白檀)のこと。
 白壇は発芽の頃から香気があるごと、大成する人物は、小さかときから人並みはずれとるていうことのたとえ。

 場所・佐賀市神園4丁目神野公園。長崎自動車道ば大和ICで下りて左折。国道263号線で市内ばずーっと南下する。6.5kmの「神野西」交差点から右折して1kmの右側が神野公園。橋はその入口にある。取材日 2005.3.15〜11.8

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