まず香港上海銀行の話からしていこう。
この銀行は、慶応元年(1865)3月 アヘン戦争後イギリスの植民地になった香港で、ユダヤ系イギリス人のアーサー・サッスーン卿いうとが創設した。
1ヵ月後にはイギリスの共同租界が置かれとった上海でも営業ば開始したていう。
なんばしよったかていうと、中国にある外国企業の貿易金融ば扱いよって、通貨の発行もしよったらしか。
設立した翌年の慶応2年(1866)には、横浜に日本支店ば作り、その後大阪やら神戸、長崎にも次々に支店ば開設していった。
日本では政府の貿易金融政策の顧問業務やら造幣への協力ばしたほかに、日本最初の近代的銀行、横浜正金銀行がその体制ば作るとに、そのモデルとして香港上海銀行も協力ばしたていわれとる。
この長崎支店はいうたら、明治25年(1892)に開設されとる。
建物は建築家の下田菊太郎が設計したていわれ、いま彼の設計で残っとる建造物は、これひとつしかなかとゲナ。長崎市内の石造り洋館としては最大のもんやったらしか。
当時神戸から西では唯一の外国銀行やったケン、在留外国人が利用しとったていう。なかでも貿易商ば主な取引先にしとったていうケン、トーマス・グラバーさんもよか得意先やったにちがいなか。
下田菊太郎によって当時の建築技術ば結集したこの洋館は、長崎港に向かって建てちゃったケン、波止場一帯の風景ば引き立てとったに違いなか。
正面の2、3階部分はジャイアント・オーダーて呼ばれる四本の通し柱で、ギリシアのコリント式大列柱。柱頭には美しいアカンサスの葉が飾られとる。屋根の上に見られるアンティフィクサ、アクロテリオンていうギリシア風の装飾も日本にはなかもんやったケン、話題になったていう。入港する船からやったら、目立つデザインやったて思われる。
今の大浦海岸通り。むかしはこのへんのことば「大浦バンド」ていいよった。外国人居留地帯ていう意味タイ。
いま、1階には銀行業務ばしよった当時の長かL字型カウンターがそのまま残されとって、これば見とると往時の銀行風景は、こうやったちゃねぇて思い浮かべることがでける。
カウンターの内部のスペースは、100人ぐらいまで収容できる多目的ホール。コンサートなどに利用されとって、安う使えるもんやケン、出演者、観客ともに好評ゲナ。
2階、3階へと続く螺旋階段、手すり、室内のマントルピース、白か天井など、全ての装飾が明治の華麗な時代ば偲ばせてくれるケン、韓国の観光客まで満足しとんなった。
長崎〜上海航路、長崎港の歴史、下田菊太郎についての資料館にもなっとる。
2階の応接室には、手作りの小さな頓珍漢人形(トンチンカン人形)が展示されとった。
作者は故久保田馨(かおる)さん。
14年間に30万体も製作されたこの人形は、長崎市内の土産物店で売られてとった土人形で、ひとつひとつじっくり見ると、とても愛嬌のある姿形ばしとる。
その不思議な独創性に魅せられたブラジルの詩人、I・Cヴィニョーレスの絶賛ば受けてデザイン誌上で紹介され、全国的に有名になった。
また、この人形創作には原水爆への怒りやら、平和への願いが込められとるケン「もうひとつの平和祈念像」てもいわれとると ゲナ。
上・むかし銀行業務ばしよった1階のホール。
左・頭取室のマントルピースと頑丈そうな金庫。
下・2・3階へのらせん階段
下左・2階の応接室は重厚な感じがした。
明治がんこ。大正モダンなシャンデリアがどの部屋のも楽しそうにしとった。
左・松が枝埠頭からみた建物の正面。この右隣に「長崎ホテル」があって、大浦バンドていわれた海岸通りの象徴やった。
上・屋根のギリシヤ風な装飾。
下・2階ベランダのコリント式大列柱。
現在香港上海銀行がとうしとるかていえば、東京の中央区日本橋と大阪の堺筋本町の2拠点だけで営業しとる。
一般の銀行業務はせず、投資や法人向け業務、富裕層の資産運用ば中心としたプライベートバンキングいうことで、関連会社のHSBC(TheHongkong andShanghaiBankingCorporation Limited、)では証券やら投信などの営業もしよる。