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勘五郎 J r の遊び心が楽しか親柱の飾り      「熊本県」の目次へ
 御船町指定文化財

 御船町の八勢川に架かる下鶴目鑑橋は、橋本勘五郎・弥熊父子が架けた橋。橋本勘五郎いうたら、種山の石工で、御船橋やら矢部の通潤橋などば作ったもんやケン、東京に呼ばれていって万世橋やら浅草橋、日本橋に二重橋まで架けた名工タイ。その名は天下に轟いとった。
 その親子が、明治15年(1882)10月から明治19年(1886)10月まで、ゆーっくり満4年もかけて架けた橋やケン、凝っとる凝っとる。ていうかリラックスして遊んどる石橋タイ。

 橋の基礎部分は、通潤橋でも彼らが使うた熊本城の鞘石垣ば応用して、どっしりとした造りになっとるケン、ほかの石橋と同様120年間経って、寸歩の狂いもなかごとしとる。

 丸みを帯びた欄干と柱は、見事な石造りで、現在でも美しい姿ばしっかりと残しとる。
 橋の長さは十三間(71.0m)、幅は三間半(5.3m)てなっとるバッテン、両岸部分は広がっとるケン、とっけむのう幅広かごと感じられる。

 この橋は、勘五郎親子が架けた橋いうて有名バッテン、この時勘五郎はもう60才。
 ほとんど息子の弥熊がまかされて架けたっちゃなかろうか。

 酒好きの弥熊は、橋の親柱に「とっくり」と「さかずき」の洒落た飾りば残したり、自由奔放な仕事ばしとる。親父の実直な勘五郎と違うて、若っか遊びの感覚が面白か。

 それに弥熊は、この橋の仕事中に一人の娘と出会い、幸せに暮らしたていう言い伝えがある。

 4年もかかったとは、こげな遊びばしょったケン、じゃのうして、途中で大洪水に遭遇したためゲナ。 

 この橋がでけて、熊本から矢部・宮崎県に行くとが便利になり、その貢献度は測り知れんやったとバッテン、時代の変転は、通る車の量と、通る車の変わりようで、堅固に作られとった石橋も、ギブアップした。
 いまは隣接して作られた新橋ば横目で見ながら、役目を終えた石橋は、車両通行止にして年金生活に入っとる。

上・北側の親柱には左にトックリ。
下・向かって右にサカズキの飾り石がついとって、なんとなくほのぼのとした感じがする。

上・同じく南側の親柱の右には満月と三日月。
下・左にはうさぎとおぼしき飾りがついとるバッテン、石も加工も違うケン、これは後から補修したもんのごたる

 下鶴目鑑橋の上流約5kmには、八勢目鑑橋があって、日向へ行くにはいずれにせよこの八勢川ば越えないかんやった
 擬宝珠にも高欄にも丁寧な細工が見えて、しっかりと時間ばかけて作った跡が、いま見てもしっかりと伝わってくる。

 径間(スパン・アーチの直径)27.3m。拱矢(きょうし・アーチの高さ)9.0m。

 総工費は2,538円31銭やったゲナ。

御船(みふね)」の由来は
 
景行天皇が九州ば平定するためここに来なったとき、その「御船(おんふね)」が着岸したケン御船ていうごとなったとゲナ。このへんの熊襲が大和朝廷に従わんやったケン、景行天皇も息子のヤマトタケルも、九州にはてこずっとんなったとタイ。

 南北朝のころには、阿蘇家の一族、御船河内守盛安(みふねかわちのかみもりやす)が治めとった。戦国時代には御船阿波守行房ばやっつけた阿蘇家の甲斐宗運(かいそううん)が、御船千町ば阿蘇家から貰うてこの地ば支配した。

 天正15年(1587)豊臣秀吉によって肥後の国は2分され、御船は小西行長(こにしゆきなが)が治めることになったとバッテン、関が原の戦いで行長が滅ぼされたら、その支配は加藤清正(かとうきよまさ)に移り、さらには細川忠利(ほそかわただとし)に変わった。

 熊本に入国した忠利は「手永制度」ば取り入れて、地方政治の組織・制度ば大変革。手永制度いうたら、郡と村の中間に当たる行政区画で、惣庄屋が20〜30ヶ村ば一括支配するていうもんやった。いまの御船町の大部分は、辺田見(へたみ)の木倉手永会所総庄屋(きくらてながかいしょそうしょうや)が取り仕切っとったていう。
 矢部に通潤橋(別項)ば架けた布田保之助も、矢部手永の惣庄屋やった。

 場所・熊本県御船町大字滝尾字下鶴。九州自動車道ば御船ICで下りる。左折して国道445号線ば3.6kmで「辺田見」の信号を直進。約4kmの左手、旧道に架かっとる。                  取材日 2007.4.26

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