文久2年8月21日(1862) 横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列が通りよるとい、イギリス人4名がその前ば横切った。
「きさん達あ、なんばしようとかあ。無礼やろうもん」
薩摩藩士が博多弁でいうこたあなかろうバッテン、腹かいた奈良原喜左衛門、海江田信義らがイギリス人ば斬ってしもうた(死亡1名負傷2名) これが世に言う生麦事件タイ。
幕府からは賠償金ば貰うたバッテン、腹の納まらんイギリスの外交官ジョン・ニールは、文久3年6月22日(1863)薩摩藩と直接交渉のため、7隻の艦隊(旗艦ユーリアラス号、クーパー提督)で横浜ば出港。6月27日 錦江湾沖に到着した。
生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンドば要求したバッテン、薩摩藩は当然のごと拒否。
なんで拒否したかていうと、処罰の対象ば、犯人じゃのうて藩主と勘違いしたためやったゲナ。藩主ば処罰なんて薩摩藩のメンツにかかわる。「なんこきよるか」てはねつけた。
裏話ばするとねえ。イギリスの要求文ば翻訳した福沢諭吉が慌てとったもんやケン、原文直訳してしまい、事件の責任者と藩主の区別がつかんごたあ文章になっとったとゲナ。
7月2日 イギリス艦隊が薩摩藩の汽船3隻(白鳳丸、天佑丸、青鷹丸)ば拿捕したもんやケン、正午、薩摩藩が陸上砲台80門を一斉に開いて先制攻撃ばかけた。
イギリス艦隊の損害は大破1隻・中破2隻のほか、旗艦艦長・副長が戦死。死傷者63人にもなったゲナ。
イギリス軍も応戦して、100門の最新式アームストロング砲で、砲台、市街地、集成館ば撃ってきたバッテン、命中率は悪かった。
なぜか。
その日、錦江湾は暴風雨で荒れとったケン、船が揺れて照準の定まらんやったと。
7月4日 生き残ったイギリス艦隊は、ヤケのヤンパチで桜島ば砲撃して横浜へ撤退した。
10月5日 薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両ば、慰謝料として支払うことでイギリスと仲直りして手一本ば入れた。この大金は幕府から借りて支払うた。
博多で「手一本」いうとは「もうこれで今後いっさいあれこれ云いまっせん」いう確認の行事タイ。話しがまとまったとき、必ず入れる。
鹿児島港のあゆみ
興国2年(1341)年 島津家6代氏久が東福寺城(現在の多賀山公園)ば居城としたときに、鹿児島港の歴史も始まる。その当時は、いまの市街地のかなりの部分はまあだ海やった。
慶長7年(1902) 18代家久が鶴丸城に居を構え、以後城下町の発展とともにだんだん錦江湾ば埋め立てていった。
寛政〜嘉永年間(1789〜1854) 琉球・奄美貿易が盛んになったとと、国防上の理由から、弁天波止・屋久島岸岐・三五郎波止(以上、今はなか)・新波止(現存)が順次作られていった。
明治34〜38年(1901〜1905) 日清戦争以降、沖縄・台湾・阪神などの航路が繁栄したことで、明治の大改修(物揚場、防波堤、浮き桟橋等の整備)が行なわれた。
大正11年(1922) 国の指定港湾(内務省告示)になった。
大正12〜昭和9年(1923〜1934) 大正・昭和の大改修(防波堤、岸壁、浚渫等)がされた。
昭和60年以降の港の整備により「新波止」はその役割ば終え、今は水族館とともに市民の憩いの場になって、静かに海を見つめとる。