寛永16年(1639)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、嘉永7年(1854)の日米和親条約締結までの期間ば一般的に「鎖国」て呼ぶ。江戸幕府は、日本人の渡航ば禁じ、貿易もオランダ・中国の2ケ国に限って、幕府の管理下でしかしたらいかんやった。
そのころの話、寛永19年(1642)以来、佐賀藩は福岡藩と1年交代で長崎警備にあたっとった。
外国船の頻繁な来航、1840年のアヘン戦争などの国際情勢に苦慮した幕府の老中・安部正弘は弘化2年(1845)、オランダ国王の開国勧告ば拒否したのち、長崎警備ば担当する佐賀藩・福岡藩に対し、長崎港の大砲台場の改築について諮問した。
諮問いうとは「現場としてどう思うか」ということと「どげんかしちゃりやい」ていう丸投げのこと。
それに対して、佐賀藩の第十代藩主鍋島直正(なおまさ)は「外目の大砲台場ば大幅に改築して、大口径の大砲ば100門ほど据えたらよかですばいた」て提案した。
外目云うとは港外のことタイ。
バッテン、幕府は、台所がキツカったもんやケン「金は出しきらん」いうて佐賀藩の提案ば否決した。そこで佐賀藩は、自領(飛び地)の神ノ島と四郎ヶ島の間(約230m)ば埋め立てて、大砲台場の増設工事ば始めた。
埋め立て工事は、嘉永4 年(1851)4月に着工、翌年に完了した。アメリカのペリーが来る1年前のことやった。
そして、佐賀藩は、自力で開発した大砲ば神ノ島・四郎ヶ島の台場に設置した。当時、佐賀藩のほかには、反射炉ば使う大砲製造の技術はなかった。
長崎に押し寄せてきて開国ば迫ったロシアのプチャーチン艦隊に対して、幕府の川路勘定奉行が、強硬な姿勢で開国を拒否したとも、佐賀藩が独力で築造したばかりの伊王島、神ノ島・四郎ヶ島に、強力な大砲台場があったけんやった。
湾口に向いて聳える砲台跡の石垣群
一方、1853年に来航したアメリカのペリー艦隊に江戸幕府は、慌てくりまわって開国の要求ば呑んだ。それはなしかいうと、江戸湾に長崎のごたる強力な大砲台場がなかったけんタイ。
幕府は、江戸の失態ば反省して、佐賀藩に50門の大砲ば注文し、その大砲が、品川の台場に運ばれたていう。当時の佐賀藩が、いかに鉄鋼製品で最先端の技術ば持っとったかていうことが分かる。
1854年、2回目に来たペリー艦隊は品川沖まで来たとバッテン、この砲台のおかげで江戸に上陸しきらんで、横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになる。
品川の台場は、石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台で、合計8つの台場が建設された。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場の建設ば急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲ば据えたとバッテン、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国してしもうた。
東京にはいまでも「お台場」いう地名が残っとるバッテン、なし「お」がついとるかていうと、江戸の町民が幕府ば怖れ、尊敬してたてまつっとるっタイ。
長崎の台場に話ば戻す。自前で台場ば築造することにした佐賀藩は、その道の権威者やった幕府の江川太郎左衛門の意見ば聞き、幕府が持っとったサハルト八菱城の原本ば借り受け、佐久間像山あたりにも相談して設計図ば作りあげた。サハルトていうとは、フランス人で築城の名人タイ。北海道の五稜郭もこれば参考にして作られとると。
神ノ島と四ヶ郎島ば結ぶ工事は予想外の難工事で、見積もってみたら、延べ人夫21万6千人、石工18万5千人ば使い、その費用は約6万3千両もかかることが分かった。
佐賀藩は、幕府に借金ば頼んだバッテン、さきに書いたごと手元不如意の幕府はウンて云わん。そこで佐賀藩は、独力で実施することを決心したわけタイ。
まず、90艘の漁船に石材ば満載して、海中に投げ入れたバッテン、波が強うて石は押し流され、投げ入れても、投げ入れても、海が埋まらんやった。
それば知った長崎んもんの間では、「どんどん転びの堰所の石よ、どこで止まるか先き知れぬ」ていう歌が流行し、「金ば海に捨てるとと一緒タイ」いうて佐賀藩ば皮肉った。
長崎ば守る立場で地図ば見たら、伊王島・四郎ヶ島がいかに重要な場所やったかていうことが分かる。
そこで考えた佐賀藩は、2間に1間半に高さ1丈の枠ば作り、これに石ば入れてて、海中に沈めたところ、今度は潮に流されず海の底に落ち着いた。
この方法で1852年2月から、神ノ島と四郎ヶ島の両方から145隻の舟で一気埋め立て、127間( 約230m)が月末の29日には徒歩で往来ができるようにつながったていう。
島に石ば運んで石垣築いて、四郎ヶ島の大砲台場の増設、築造が完成したとが、嘉永5年(1851)ていう訳タイ。
そして同年7月には佐賀城下で築地反射炉が完成し、ここで製造された大砲が四郎ヶ島などの新砲台に装備されていった。
1854年、幕府の川路勘定奉行は、佐賀藩の案内で、神ノ島、四郎ヶ島などの砲台ば見て回り、実弾射撃も見学した。(勘定奉行いうとは幕府の財政と直轄領の最高責任者のこと)
川路はこのことば「長崎日記」に次のように書いとる。「1月15日晴、長崎の台場ば巡視。松平肥前守(鍋島直正 )の新台場まことに宜しき出来で・・・云々」
この砲台のお陰で長崎は、外敵の侵攻ば受けることなく、原爆落とされるまで平和に暮らせたとやケン、佐賀藩ば皮肉るどころやなか。四郎ヶ島砲台に感謝しとかないかんとタイ。
ところが現在はほったらかし。石垣はくずれ砲台跡は荒れ果てたまま捨て去られとる。釣りに来とる地元長崎のもんに聞いても、そげなこたぁなぁーも知らん。
市の観光課に文句言いにいったら、若っか係長が担当で「いま測量調査中で、これから整備して観光に活かそうテ思いよります」
「分かっとりゃよかタイ。頑張んしゃい。早うせなつまらんバイ」て云うてきた。
佐賀県の学者やら有志の人達も「佐賀の先祖が造った遺産やケン、なんとかせんば」いうことで最近調査活動ば始めとんなる。
写真は一括して荒れ果ててくずれ、木に喰われとる砲台の跡。
長崎ぶらぶら節には、こんな歌詞があってずっと歌い継がれとる。
沖の台場は伊王島 四郎ヶ島 入り来る異船は すっぽんすっぽん
大筒小筒を鳴らしたもんだいちゅう
嘉永七年 きのえの寅の年 四郎ヶ島見物がてらにオロシャがぶうらぶら
ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
四郎ヶ島砲台跡の石垣。奥が神ノ島。