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県の無形民俗文化財「早魚神事(はやま)」で有名か     「福岡県」の目次へ
志式座は市の指定文化財

 三韓征伐からアップアップで帰って来なった神功皇后は、ここ奈多の「吹上の浜」に社ば建て、神楽ば舞うて無事帰還のお礼ばしなったとゲナ。

 志式神社は、奈多集落北側の松林に囲まれた砂丘上にある。

 祭神は火明神・火酢芹神・豊玉姫神・十城別神・稚武王・葉山姫神などの六神で、農業と漁業の神社として信仰されとる。

 1700百年も前、古墳時代のことやケン、ようは分からんバッテン、神功皇后が三韓征伐から帰りよんなったら、舟が動かんごとなったゲナ。

 で、ご先祖さんの豊玉姫に「なんとかしてつかあさいや」て、お祈りしなったら、舟が動き出して無事帰り着くことがでけたていう。

 いつもは閉まっとるバッテン、いまも現役で、毎年4月1日の初老賀祭(厄落とし)と7月19日・20日の奈多祇園で使用されとるていう。舞台前には盛士をして見所(観客席)が作られとった。
 こげな農村舞台はかつて西区や東区にもあったげなバッテン、いま市内には、この「志式座」が残るだけになっとるケン、市の指定文化財タイ。

 
早魚神事
 志式神社の秋の大祭では、「
献魚包刀式(けんぎょほうとうしき)」ば中心に繰り広げられる、独特の神事「早魚神事(はやましんじ)」が行われとる。
 夜神楽のなかで「早魚舞」として行われ、
福岡県の無形民俗文化財に指定さとると。

 それで奈多の里「吹上の浜」に、お礼のために社ば建て、神楽ば奏して祀んなったとゲナ。異族襲来の守護神も兼ねとったケン、むかしは沖の方ば向いて鎮座しとんなったらしか。
 慶長二年(1597)、後陽成天皇の頃、三郎天神ば合わせ祀り、志志岐三郎天神て云いよったとバッテン、明治維新後、いまの志式神社になった。

 欲張って六神も祀ってあるケン、ややこしかバッテン、祀っちゃあ神様ばみーんな紹介すると・・・

 
火明神(ほのあかり)、火酢芹神(ほのすせり) 天下った瓊々杵尊(ににぎ)に惚れられて結婚した大山津見神(おおやまつみ)の娘・木花咲耶媛(このはなさくや)が夫に「身ごもった」ていうたら、瓊々杵から「それは不倫の子やろう」いわれて「そんならよう見ときんしゃい。産屋に火ばつけてその火の中から無事に生まれたら、あんたの子タイ」て啖呵ば切った。燃え盛る炎の中からまず生まれなったとが火明命で、続いて生まれたとが火酢芹神でこれが海幸彦。三番目に生まれたとが彦火々出見尊(ひこほほでみ・山幸彦)ていうことになる。

 
豊玉姫は古事記の上巻、山幸彦と海幸彦の神話に登場する女神で、天下った瓊々杵尊(ににぎ)の息子・彦火々出見尊と結婚して、鵜茅草葺不合尊(うがやふきあえず)ば産んだ。その四男が神武天皇ていう訳で、早う云えば神武天皇のばぁちゃんタイ。

 
十城別神(ときわけ)は、ずうっと下って12代景行天皇の子の、日本武尊(やまとたける)の子やケン、景行天皇から云うと孫になる。兄貴の仲哀天皇と神功皇后について筑紫にやってきたところが、朝鮮半島に遠征しやいていう天照大神と住吉三神の神託があったとバッテンが、仲哀天皇は香椎で急死。懐妊しとった神功皇后、武内の宿禰とともに出陣せないかんハメになっとんなると。
 百済・新羅・高句麗ば平定して(古事記・日本書紀には三韓征伐として記載されとる) 凱旋後に十城別王は平戸に残り、配下の武将の七郎氏広と共に朝鮮半島への警備に当たっとんなったとやが、この地で死になった。そやケン、いま平戸島南端・宮ノ浦の長崎県で一番古かていわれる
志々伎神社に祀られとんなる。

 
稚武王(わかたけのみこ) 仲哀天皇の弟の十城別神とは兄弟で、呼子の田島神社は天平年間(729〜749)に稚武王ば配祀したことで、朝廷から大伴古麻呂が派遣され、田島大明神の御神号ば貰うとんなる。

 
葉山姫神(はやまひめ) 神功皇后の留守中に、忍熊王(おしくまのみこ)が神功皇后とお腹の中におる(応神天皇)ば殺そうて明石で待ち伏せてとった。それば知った神功皇后は、迂回して難波の港ば目指したとバッテン、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進まんごとなってしもうた。
 そやケン、兵庫の港に向かい、神意ば伺ごうたら託宣があった。「荒魂ば皇居の近くに置くとは良うなか。広田国に置くのが良か」 そこで皇后は、山背根子(やましろのねこ)の娘・葉山姫に天照大神の荒魂ば祀らせたっタイ。
 これが廣田神社(兵庫県)の創建ゲナ。これらの神々が何で志式神社に、いっしょんたくりぃ祀られとんなるかは分からん。

 
奈多の七不思議
 むかしから、盗難除の神として梁上の君子(泥棒さんのこっタイ)たちから恐れられとるとが三郎天神タイ。奈多の七不思議の一つとして云いつたえられると。
 天正14年8月(1586)、島津の軍が立花城ば囲み、退いていくとき、志式神社の阿弥陀仏ば盗んでいった兵がおったゲナ。ところかどうしたことじゃろかい。その兵はクサ、途中で手足がしびれて歩くこともでけんごとなったて。これば助けて薩摩に帰ったもんも、奇異な事ばっかり起こったもんやケン、えずがってクサ、心から神にあやまったて伝えられとる。
 
 またある盗賊、奈多の話ば他から聞いて「そげなことがあるもんや、バカが。おれは神なんて屁にもかけとらん」て、あざ笑い、奈多の豪家に侵入して一仕事。意気揚々おのれの腕前ば自慢しながら帰りよったら、なんとなんと、目の前に降ってわいたごと大きな屋敷があらわれよった。よく見たら、それは先刻泥棒に入ったばかりの家やったけン、急に恐ろしゅうなったと思うた途端。足がなえてクサ、一歩も歩ききらんごとなったとゲナ。
 泥棒はついに泣き声上げて志式の神にあやまったていう。村の人たちがこれば聞いて集まり、ひちゃがちゃに懲らしめてから追放しなったゲナ。泥棒さんなあ半死半生の体でクサ、神威の恐ろしさば思い知らされて、逃げ帰ったていう話。

 天平十八年(746)聖武天皇の御代、、観世音寺建立の本尊にしょうて中国から赤銅の阿弥陀像ば船に積みこんで持ってきよったら、海上が時化て危のうなったケン、肥前五島の志志岐大明神ば船中に勧請して拝んだら、風も浪もあっという間に納まって、その後、難なく帰りついて観世音寺も無事にでけた。
 以降、奈多の沖では船は半帆にして、航海の安全ば祈りつつ通り過ぎるごとなったて伝っとる。・・・などなど志式神社には霊験あらたかな話がうんとある。

奈多の志式座

 一の鳥居ばくぐった右手に建つ
志式座は、間口約18m、奥行約8m、このうち舞台は間口約12m、奥行き約5mもある立派なもん。

 桟瓦葺切妻平入の農村舞台で、舞台下手には7.2mの花道までついとる。

 この常設舞台「志式座」は、明治28年(1895)に粕屋郡久山町の猪野神社境内から移築されたとゲナ。

 この神事の由来は、三韓征伐から帰ってきなった神功皇后の一行がクサ、ペコペコに腹すかしとんなったケン、
この辺の漁師達が手際よう急いで魚料理ば作って差し上げたていうとが始まりゲナ。
 おんなじごたあ話は姪浜にもあって、そん時のお膳になった御膳岩とか、お椀の化石とかが残っとる。こげな話は奈多でも姪浜でも、どこでもよかっタイ。

 献魚包刀式は二組の青年たちが、まな板の上に置いた塩鯛をさばく早さを競う競争神事で、若者から大人への通過儀礼でもあると。昔は、勝った方がよか漁場ば取りよったげなケン、必死やったていう。

 一組は包丁で鯛をさばく「料理人」、座元に鯛のヒレを差し出す「ひれさし」 さばいた鯛の身ば入れるすり鉢をもつ「すり鉢持ち」 そして「提灯持ち」の4人で構成されとると。

 出場者と役割は、当日のくじ引きで決めるケン、全員が稽古しとかないかんとタイ。不公平のなかごと両チームとも同じ2時間の稽古で本番にいどむことになっとる。
 さばいた鯛は「安産」の守りとされ、小さく切り分けて氏子たちに配られるとゲナ。

 2007.03.17 建物だけば撮ってきとったら、写友の榎本さんが、今年11月19日の「秋大祭」に自治会長としてご招待ば受けて、特等席から貴重な神事の一切ばちゃあーんと撮ってきちゃんしゃった。
 やっぱあ、赤が入れば派手でヨカ。これで九州遺産も格好がついた。感謝。感謝。

 場所・福岡市東区奈多。市内からやったら、人工島ば突っ切って海の中道大橋ば渡る。「リクレーションセンター前」ていう長たらしか名前の信号ば志賀島方向へ左カーブ。カーブのが立体交差になっとるケン、ここで直ぐにUターン。走ってきたたカーブの上ば股ごして、この道は海岸線沿いに三苫へ続いとる。カーブから2kmの信号左折で到着。    

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