崇福寺は中国様式の寺院としては日本最古のもの。創建の経緯からして福建省の出身者が門信徒に多かったケン、長崎のもんからは、福州寺とか支那寺て呼ばれとった。
歴代住持は開基が超然で、第2代:百拙如理、第3代:道者超元・・・て続いとった。
当初、長崎唐寺の特色は宗教的行事が目的じゃのうて、唐の船主たちは航海安全の祈願やら先祖の供養が主やったケン、海の神様の媽祖ば祀る「媽祖堂(まそどう)」ば持つことが大切やった。
その後、寄進によって大雄宝殿やら山門などの整備が進み寺院としての機能ば整えるようになっていった。
国宝の大雄宝殿は、桁行五間、梁間四間、二重の入母屋造り、本瓦葺。当初は単層やったけど延宝から天和年間に、上層が追加されて現在の重層になった。
第一峰門(海天門、唐門、二の門、中門、赤門)は、超然が死んだ1644年の建立、四脚門、入母屋造り、本瓦葺。
ほかに重要文化財として、嘉永2年建立の三門(桁行三間、梁間二間、二重門、入母屋造、本瓦葺、左右脇門付)
享保13年(1728)にでけた鐘鼓楼(桁行三間、梁間二間、二重、入母屋造、本瓦葺) 享保16年(1731)建立の護法堂(桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺)などなど・・・
国指定重要文化財5、県指定有形文化財4、市指定有形文化財10で文化財だらけタイ。
崇福寺(そうふくじ)は、長崎県長崎市にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺。大雄宝殿と第一峰門は国宝。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」ていわれとる。
正式には聖寿山 崇福寺。
寛永6年(1629) 長崎で貿易しよった福建省出身の華僑たちが、福州から超然(ちょうねん)ば招聘して創建した。超然とは中国福建省生まれの中国僧。日本に来たときは63歳やった。
その背景には、当時、長崎に住む福州から渡来した中国人たちに、自分たち独自の菩提寺ば建てたかていう願望があった。そのため、福州出身の僧ば呼び寄せたていう訳。
そして寛永9年(1632)には、幕府から崇福寺の造営が認可された。
4年がかりで寛永12年(1635)に崇福寺が完成し、超然が初代の住持に就任した。
それから約10年住職ば続けとって、正保元年(1644年9月8日)、超然は78才で亡くなった。
崇福寺第一峰門(だいいっぽうもん) 国宝
唐門・海天門・二の門・中門・赤門てもいわれとる。中央に即非禅師の書である「第一峰」の扁額がある。「第一峰門」の名称はこの扁額の文字が由来。
創建は寛永21年(1644)、現在の門は元禄8年(1695)に中国・寧波で材木ば切組み、運ばれてきたもので再建した。横額の表、「崇福禅寺」は唐通事の林仁兵衛(林守)、裏の「海天華境」は林大卿(楚玉)の父子による寄進。
崇福寺・三門
通常、寺の門は「山門」ていわれるとに、崇福寺の門は、3つ門扉があることから「三門」ていわれとる。さらに、二階建ての楼門になっとって竜宮城に似とることから竜宮門ても呼ばれとる。
「三門」いうとは三解脱門の略ていわれ、悟りの境地に至るために通る三つの門のこと。「空解脱門」「無想解脱門」「無作解脱門」ば意味しとるとゲナ。三門に掲げられた「聖壽山」の扁額は隠元禅師の筆ていわれとる。
華麗な形しとるケン、別名竜宮門ても言われる。寛文13年(1673)に創建された当時は、三間一戸八脚門入母屋造りの単層で、現在のものとは全く形が違うとった。
明和3年(1766)の長崎大火によってこれが焼失。その後再建された門は、文政9年(1826)の台風で倒壊、ちゃっちゃくちゃらになってしもうた。
現在の三門は、游龍彦十郎・鄭幹輔の発願によって嘉永2年(1849)に再建されたもので、日本人棟梁大串五良平の手によったていう。
この護法堂には
面白か言い伝えがある。
関帝像前に菓子や食べ物ば供えると、よくねずみに食べられるもんやケン、ある日、即非禅師が関聖像に向かい、ねずみに食べられる罪ば責めて右の頬ば叩いたところ、頬の部分が剥げてしもうた。
翌朝見たら、韋駄天の剣にねずみが刺さっとって、まるで関聖の命令で韋駄天がねずみば退治したごたったゲナ。
悔いた即非が、関聖像の右頬ば修理したバッテン、剥げた部分にいくら漆ば塗っても、また剥げ落ちてしもうたていう。
関聖(三国志の関羽)は叩かれて腹かいたと収まっとらんとバイ。
崇福寺大雄宝殿(だいゆうほうでん) 国宝
釈迦(大雄)ば本尊とする大雄宝殿は、唐商の大檀越(だいだんおつ)やった何高材(がこうざい)の寄進で、中国から切組みば唐船で運び正保3年(1646)に建立された。市内に残る最古の建物。
この大雄宝殿は、当初は単層、平屋建てやったとバッテン、天和元年(1681)の頃、日本人棟梁の手により上層部分が付加され2階建てに重層化されたとゲナ。そやケン、下層(1階)は黄檗様式で上層(2階)は和様バッテン、一見何の違和感もなく調和しとる。
1階の屋根軒丸瓦の瓦頭には崇福寺の「崇」、2階の屋根瓦頭には「福」の文字がある。
大雄宝殿の本尊は釈迦如来坐像ば祀り、向かって右脇侍に迦葉(かしょう)尊者、左は阿難(あなん)尊者ていう立像ば従えとる。
本尊の釈迦如来坐像は承応2年(1653)の作で「内臓」がある。
昭和10年(1935)頃、仏像の修理ばしよったら内から銀製の五臓、布製の六腑などが発見された。
内臓の模型ば入れるとは「生き身の釈迦」としてインドに伝説があるそうやけど、金属製の内臓ば持っとるとは、わが国の仏像としてはとても珍しかていう。
護法堂(ごほうどう)
(天王殿・関帝堂・韋駄殿・観音堂) 国指定重要文化財
享保16年(1731)中国工匠により再建された。扁額「護法蔵」の文字は即非の書。
中央に観音堂、向かって右が関羽ば祀る関帝堂、左手が韋駄天ば祀る天王殿。
大釜
延宝9年(1681)長崎が大飢饉に襲われ、餓死者もでた。その救済のために2代目住職千凱(千呆)が托鉢に出て、自分の書籍やら衣類、道具までも売り、庶民に粥ば配っとった。
施しば受けるものは連日数千人ば超え、翌年になっても、更に飢餓がひどくなったもんやケン、天和2年(1682)に鍛冶屋町の阿山家二代目で鋳物師の安山(あやま)弥兵衛に大釜ば造らせ、この大釜で粥ば炊いて、多くの難民ば救うたていわれとる。
釜の深さは1.7m、直径が1.86m、一度に米630kg(約10俵)、三千人分の粥が炊けたていう。
媽祖堂(まそどう)と媽祖門
寛政6年(1794) 唐の船たちが白砂糖1万斤(きん)の代銀12貫目ば寄進し、大改修ば加えて再建されたていわれとる。
媽姐いうとは、海上の守護神で別名ば天后聖母ていう。媽姐ば祀ったお堂は長崎の唐寺だけに見られる。
媽姐像ば中心に安置し、向かって右に、悪の兆候や悪巧みば聞き分けて、いち早く媽姐に知らせる「順風耳」の立像が、媽姐の進む先や回りば監視して媽姐ば守る「千里眼」の立像がある。