このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

緑の中に埋もれとった明治の農業土木遺産     「大分県」の目次へ

 

 豪雨の中やっと目的の橋の近くにある富士見GCば見つけた。

 コース整備のお兄ちゃんに「第三区明治大分水路橋ていう2連アーチの石橋がこのへんにあるはずやが知らん ? 」て聞いたバッテン「 ? 知りませんねえ。事務所に行って聞いてください 」「よかよかそんなら自分で探す」

 後戻りして地図ば確認する。確かこのあたりに間違いはなか。夏草の生い茂った藪の中ば、すかしてみても、それらしきもんは見当たらん。橋やケン、流れに架かっとるはず、ヤマカンで見当付けて藪ばかき分け川のほうに下りていく。

 また雨がひどうなって、足元はビチャビチャ。「なんでこげなこまでして、探さないかんとかいな」物好きな自分にあきれかえって独り言がでる。しかし、ここまで来とって引き返す訳にはいかん。

 飛び石ば渡ってたいがんの畑にあがり、上流へむかうと・・・あったぁ。
 ひどか雨脚でかすみ、緑のなかに埋ずもれるごとして石橋の上部が見えた。これが第三区明治大分水路橋かぁ。

 変則2連のえらい重厚な造り。西側のアーチは横瀬川ば跨いどって、明治37年(1904)の架設。

 東側のアーチは明治39年(1906)の架設ていう。 なし架設の時期に開きがあるとかは分らん。

 赤茶けた地肌に赤茶けた苔がこびりついとる。アーチの上部、水路の外側は6段に積み上げた、これまた手の込んだ造り。アーチ石も壁石も手数ばかけて丁寧な仕事のあとが読み取れる。

 さすが貫禄、明治にでけた大分の水路橋では、最も大きな石橋だけのことはある。
 そのころでも相当に費用がかかっとることば伺わせる。

 明治末から大正にかけて、大分では大規模な農業用水工事が行われたていうことバッテン、幕末からの懸案やったこの明水路が着工されたのは明治30年やった。幹線32本、支線41本ていう大規模な水路が完成したとは明治39年。

 この水路橋のお陰で水のなか平坦地やった高瀬、田尻、光吉、寒田鴛野、宮崎の各部落の水田が潤され、農作に、地域の発展に大きく寄与したていう。言い換えれば農業の生命線やった訳。

 そのくせ設計者も分かっとらん。東側アーチ部分の石工は三佐村(現大分市) 三浦庄平と桃園村(現大分市) 薬師寺宅馬て刻まれとって、西側は請負人だけが彫られとるだけ。
 橋の長さは32.2m、橋幅は4.7m、径間7.5mで、使われとる石は凝灰岩。

 
水路橋を流れる水量は雨のせいか、けっこう多かった。

 アーチの横の急ながけば水路を見るために滑りながら上がってみる。雨が続いとったせいで、水路には水がたっぷりと流れとった。しかし、急に雨脚がひどうなって、これ以上はカメラが濡れて撮されんごとなってしもうた。
 早々に退散する。

近くばすこし走ってみたら、あっちこっちに水路が作られとって、水路橋からの水が行き渡っとることが実感でけた。

左・東側のアーチは畑ば跨ぎ
下・西側のアーチは川ば跨いどる。
下左・アーチの銘板に「第三区」の文字が彫ってあった。
下右・工事請負の屋号なんかも見える。

 場所・大分県大分市横瀬。大分自動車道ば大分光吉ICで下りて国道210号線へ右折。西へ豊後街道ば約4kmの「木上」信号ば直進。さらに2kmの「下横瀬」信号から200mの四つ角ば左折。約400mで道路脇に駐車し、左側に藪を分けて入る。この道は突き当たりがゴルフ場。手前左に横瀬小がある。         取材日 2011.08.06

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