住吉神社が創建された年代は、定かじゃなかバッテン、延長5年(927)に編纂された「延喜式神名帳」にはもう「名神大社」て載っとるケン、1000年以上の歴史ある神社には間違いなか。のちに筑前一の宮(ナンバーワンていうこと)ともなった神社で、祭神はつぎの住吉三神タイ。
底筒男命(そこつつおのみこと) 中筒男命(なかつつおのみこと) 表筒男命(うわつつおのみこと)
なんてまた変わった名前の神さんかいな、て思うやろう。この謎ば解くためには、はるか彼方の「古事記」まで遡らないかん。
高天原の会議で「日本の国ば作ろうや」てなったとき、誰が担当するかでモメてクサ、結局ジャンケンポイ、あいこでショイで、イザナギ(伊邪那岐)とイザナミ(伊邪那美)にお鉢が回ってきた。
ふたりは天の浮橋に立って、まあだ固まりきらんでドロドロしとった地球の表面に、棒(天の逆矛)ば突っ込んでかき回しなったところが、そのしずくが落ちて重なり、淤能碁呂島(おのごろしま)ていう島になった。
霧のごとボヤーッとしとったケン、霧島てもいう。
あとになって、ニニギ(瓊々杵命)が天下んなった「天孫降臨高千穂の峰」説のもんは「これが鹿児島の霧島タイ」て言い張っとんなるバッテン、ここでは、その論争には触れん。
そこでふたりはその島に降りて結婚した。 子供の作り方ば知らん二神は、イザナミの「成り成りて成り合わぬ所」ば、イザナギの「成り成りて成り余る所」でさし塞いで国生みばしたゲナ。
イザナギ(男)が先に声ばかけ、イザナミ(女)ばいざなう(誘う)ていうことわり(天の理)が、これで決まつた訳タイ。以来、動物や鳥や魚などのいろんな生き物たちは、ぜーんぶ男の方から一生懸命女ば誘うごとなった。
さて、ふたりの神は、順調に子ば産んでいきなったとバッテン、火の神「かぐ土」ば産んだとき、イザナミの子宮が「かぐ土」の強か炎に焼かれて大やけど。死んでしまいなった。
黄泉の国に行ってしもうたイザナミば追っかけて、イザナギも黄泉の国に行ったとバッテン、きちゃなか(汚い)死人ば見たらいかんいうて追い返されてしまいなった。
黄泉の国からよみがえったイザナギは、死者の国の汚れば払うために、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に行ってクサ、美しか川が海にそそぎこんどる入り江の水ん中い潜っていきなった。
イザナギが海底で体ばブルブルッて震わせてすすぎなったら、底津綿津見(ソコツワタツミ)の神と、底筒之男の命が。中ほどでプルプルて震わせなったら、中津綿津見の神と中筒之男の命が。水面でフルフルてすすぎなったら、上津綿津見の神と上筒之男の命がそれぞれ産まれなったていう訳よ。
「古事記」いうとは、時の権力に都合のよかごと、稗田阿礼(ひえだの あれ・駅長が思うに、これは架空の人物でペンネーム)が書かされた、アレーッていうごと馬鹿馬鹿しかもんバッテン、これが「古事記」の「国生みのはなし」タイ。
綿津見(わたつみ)の神は龍宮の守り神で、筑紫(九州)の海人族の祖先になり、筒之男(つつのを)の命は航海の神で、住吉の三神になっとんなると。
トップの写真・「住吉造」ていう本殿の檜皮葺きの屋根。
上・拝殿の全景。 右・拝殿の屋根。
「筒(つつ)」ていうとは、水の中で吐く息が泡つぶのごとなって「つつ……」て昇っていくとばいうとゲナ。また、夜空にきらめく星も泡粒のごと見えるケン、古代は星のことも「つつ」て云うたらしか。筒之男の三神は、星ばたよりの航海の神いうともここからきとる。
海や川ん中に入って、水の霊力で体に付いた汚れば払う「みそぎ」の風習はクサ、いまでは塩が代行しとって、相撲の力士が土俵に塩ばまいたり、葬儀の後の「清めの塩」として残っとるとタイ。
ついでバッテン、イザナギが最後に顔の左の目ば洗いなったら、天照大神が、右の目ば洗いなったら、月の神、月読の命が、鼻ば洗いなったら、嵐の神、建速須佐之男(すさのお)の命が、産まれとんなると。
この住吉三神は、神宮皇后が新羅遠征のとき船団ば導いたていわれとる。
能古の島にも「白髭神社」いうとのあって、住吉三神が祀られとる。白髭なびかせたベテランの航海士か水先案内人ていうイメージやケン、船の名前にも住吉丸いうとの多かとタイ。
住吉神社いうとは、全国に2129社あるげなバッテン、大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉ていわれとると。
神社の前の天龍池(潮入りの池てもいう)が、みそぎばした所て伝えられとるバッテン、これには無理がある。
しかし、古代の博多湾は住吉神社の前まで海が入り込んどったていうとは、博多古図でも間違いなかごたる。
筑前国一の宮やったケン、朝廷やら武家の崇敬ば受け、神功皇后からはじまって歴代の多くの天皇が奉幣した記録が残っとる。
また武将では楠正成、源頼朝、足利尊氏あたりまでが祈願文やら寄進状ば寄せとるとゲナ。
いまの本殿は、藩主黒田長政が、元和9年(1623)に再建したもんで、仏教が日本に伝来する前の、古か建築様式で造られとるとゲナ。
「住吉造」ていう檜皮葺きの屋根ば持つ本殿は、大正11年(1922)、国の重要文化財に指定されとる。
平成22年は、25年に1回の式年ご遷宮の年で、いま大改修の費用ば募っとんなる。なんでも3億5千万円かかるとゲナ。そげんいうたら、本殿はだいぶん痛んどった。
上左・格式の高っか神社やケン、皇族もここからは歩かないかん。
上右・拝殿の中ではいつも誰かがお祓いばしてもらいよる。
左上下・日が西に傾くと、朱塗りの拝殿が美しく輝き出す。
●●● 一夜松 ●●●
本殿に向かって左手に一本の松の木がある。「一夜松」て云う。
これも「古事記」に負けず劣らず「おおまん(いい加減ていう博多弁)」な話しバッテン、おおよそ550年前の永享11年(1439)、後花園天皇の頃、社殿ば改修しょうていう計画の持ち上がった。
ところが年老いた一本の松が傾いとって、屋根に当たって危なかケン「こらあ、このさい伐ってしまおう」て決めたところ、この松の木がクサ、一晩で真っ直ぐに立ち直ったゲナ。
みんな「御神意のありがたさに」びっくりこいて、早速、朝廷に申し上げなったら、天皇もたまがって「松花和歌集」十二巻ば勅使に奉納させなったゲナ。以来、神木ていうことになっとると。
連歌師飯尾宗祗(いいお そうぎ)も、紀行文「筑紫道記(つくしみちのき)」のなかで、社殿に傾いた松が造営の邪魔になるので切ろうとしたところ、起き直って真っ直ぐになったていう話ば書き記し、歌一句ば詠んどんなる。
「神垣の松にぞ頼む 言の葉もすぐなる道に立ちや直ると」
いまでもこのご神木の回りば掃除したらクサ、「家内円満」「家運隆昌」ゲナ。神さんも上手バイ。