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栄西が作り、仙崖がおった 日本最古の禅寺      「福岡県」の目次へ

 聖福寺の山門には、後鳥羽上皇が書きなったていう「扶桑最初禅窟」の勅額があがっとる。扶桑(ふよう)いうたら日本のこっタイ。そう、聖福寺は日本で最初の禅寺ていうこと。

栄西(えいさい)禅師が宋から帰ってきて、建久6年(1195)に創建しなつた。なんせスポンサーが源頼朝やつたケン、最盛期には蓮池町から西門町までの敷地ば持つ大きな寺やったゲナ。

 いまはもうバス停の名だけになつたバッテン、蓮池町は聖福寺の池があったところやったゲナ。

 聖福寺は臨済宗の最大寺院いうて、大伽藍ば誇っとったけど、戦火に逢うたり太閤の町割りで削られて、今では最盛期の四分の一になってしもうとる。

 しかし、護聖院(開山堂)や子院ばふくめて、禅宗の伽藍型式がよく保存されとるいうことで、昭和44年(1969年)に国の史跡に指定された。

 境内には山門や無染池、仏殿の大雄寳殿(右の写真)、鐘楼、堪忍地蔵、本堂、勅使門と繋がる博多べいなどがある。

 重要文化財の六祖大鑑禅師像やら高麗鐘など寺宝がもいっぱいあるとバッテン、観光寺院じゃのうて、禅の修行道場いうことで一般にはみせなれん。

 ま、お寺のことはこのくらいにして、聖福寺いうたら、なんちゅうたっちゃ仙崖さんタイ。

仙崖義梵(1750〜1837)
 江戸時代に、聖福寺の123代住職になった仙崖さんは、美濃の国の貧しか家の三男坊に生まれとんなる、間引きにあうところば(昔は人間の間引きがあったとねえ)お寺に拾われ、のち得度して坊さんになったていう人。
 高僧やった仙崖さんも人並みの名誉心で出世ば望んだ時期もあったとバッテン、望んどった寺の住職になれず挫折。

 学問知識の僧から庶民の中に生きる僧に方針転換し、博多に来て聖福寺の住職になんなった。出世街道からはずれなったもんやケン、権力やら組織には反骨的で、黒田藩とはケンカばっかりしとんなったていう。藩の云うことばきかんケン、由緒ある寺のくせに、台所はいっつも火の車。雨漏りしてもそそくりもでけんやったらしか。

 隠居してからは塔頭のひとつ虚白院に住んで、だれかれなく親しゅうしなったもんやケン、仙崖さん仙崖さんて慕われて、町民に人気があった。そやけん飄々とした面白か逸話がいっぱい残っとる。

 また仙崖さんが、町の人にせびられては描いてやった絵が、とぼけたなかに滋味あふれるもんで、このなかに仙崖さんの云いたかった禅の真髄が込められとる。出光興産の創業者・出光佐三が仙崖さんの大ファンで、長年かかって収集した作品が出光美術館にはいっぱい残っとる。市の美術館にも何点かは展示されとる。

仙崖語録
めでたかろうが
 お正月に仙崖さんば訪ねてきた人が、
「何かめでたかことば書いちゃんなっせ」て所望したところ、
「うんよか、ちよっと待っときない」いうて
「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」て書いてやんなったゲナ。
 正月早々縁起でもなかてカンカンに怒る客に「これが一番めでたかとタイ。これが逆やったらどげんなるな」


親父ゃ死んだや ?
 
「あの呉服屋はえらい繁盛しよりますが羨ましか」て檀家のひとりが仙崖さんに云うたら
 「親父ゃ死んだや ? 」
 「いいえまだピンピンしとんなあですバイ」
 「店ちゅうもんはねぇ、派手に儲かりようごと見えても、金が回りよるだけ。借金もあるやろうケン、親父が死んでみな分からんと」


七福神のきんたま
 
黒田藩の侍が来て、仙崖さんば困らしてやろう思うてクサ、
 「七人にひとつ足らぬ物がござろう」て、禅問答ばふっかけた。
 「そらあ 七福神のきんたまタイ」


夫婦喧嘩は寝て解ける
 
元日の朝いうとに、寺の前の金屋小路の男が駆け込んできた。
 「和尚さんもし、一寸来てつかあさい、隣の夫婦がつかみ合いの喧嘩ばしよります」
 「で、原因はなんごとな」
 「かかさんが雑煮の餅ば煮すぎたとですゲナ」
 「そうや、そら目出度か。一寸待ちないや」
 さらさらと描いた富士山の絵に賛ばして、
 「富士の白雪 朝日で解ける 今朝の雑煮は煮て解ける 夫婦喧嘩は寝て解ける」
 「さあ、この薬ば早う持っていってやんない」


羅宗がいちばんタイ
 
「和尚さんもし、世の中いろんな宗派がありますバッテン、どれがいちばん有難かお宗旨でござっしょうかい」
 「そらあ 羅宗タイ」
 「そげな宗派は聞いたことござっせんが」
 「そうや。男は男らしゅう、女は女らしゅう、親は親らしゅうがいちばんタイ」


南無酒カ如来
 
酒ば飲む、ていうより酒ば楽しんだ仙崖さん。
 寺の近くに住む貧乏な一丸岩根ていう酒飲みの男ば可愛がった。
 天真爛漫さがよっぽど気に入っとったごたる。

 岩根は、人に頼まれた云うて、よう絵ばねだりに来よった。仙崖さんは人から頼まれたっちゃのうして、絵が岩根の飲み代になりようとば知っとって「おう、よかバイ。描いてやろう」
 あるとき、岩根の似顔絵に
「家は借りもの親もなし子もなし 南無酒カ(釈迦)如来たすけたまえ」


絶筆の碑
 
頼まれれば誰にでも気さくに描いてやりよんなった仙崖さんも、80越したら描くとが段々億劫になって、合甫長右衛門にあてた手紙では
  うらめしや わが隠れ家は雪隠か
    来る人ごとに紙おいてゆく
て、愚痴っとんなる。
 そしてついに、絶筆の碑ば建てなった。
  墨染めの袖の湊に筆すてて
     書にし愧をさらす浪風

 それでも「描いてつかあさい」いうてくるもんは後を絶たんやったゲナ。


仙崖さんの遺偈
 
仙崖さんは死になったとは88才。その遺偈は
  来る時 来る処を知る
  去る時 去る処を知る
  手を懸崖より撤せざれば
  雲深くして処を知らず

 博多弁に訳せば
 生まれてくるときも死ぬときも、自分のこたあ見通しとかないかん。バッテン、そうはいうても、いっぺん崖から手ば離して、谷底に落ちてみらな、雲がかかっとってなーも分からんタイ。

 勅使門。山笠はこの前の狭か道ば走る。
 仏殿(大雄宝殿)。最近屋根ば葺き替えてきれいになった。
 鐘楼。境内の伽藍配置はキッチリとした禅宗形式。
 通津橋。仏殿前の無染池に架かる石橋。2径間円弧桁橋。
 仏殿の柱。夏、ここばステージにしてJazzコンサートがある。
 博多べい。戦乱で廃墟やった博多の町ば秀吉が復興するとき、焼け石や焼け瓦などば使うて土塀ば作った。これが博多塀タイ。昔はリサイクル上手やった。
 老人六歌仙(仙崖作)

 1. 皺(しわ)がよる 黒子(ほくろ)ができる
    腰曲がる 頭ははげる ひげ白くなる

 2. 手は震う 足はよろつく 歯は抜ける
    耳は間こえず 目は疎(うと)くなる

 3. 身に添うは 頭巾襟巻 杖眼鏡
    たんぽ温石 尿瓶(しびん)孫の手

 4. 聞きたがる 死にともながる 淋しがる
   心は曲がる 欲深くなる

 5. くどくなる 気短くなる 愚痴になる
   出しゃばりたがる 世話焼きたがる

 6. またしても 同じ話に 子を褒める
   達者自慢に 人は嫌がる
仙崖さんの住処幻住庵
 幻住庵いうとは「延元(えんげん) 元年(1336)の創建で、 無隠元晦(むいんげんかい) による開山やった。

 以前は、 那珂(なか)郡の馬出(まいだし)村(現・福岡市東区馬出)にあったとバッテン、 慶長(けいちょう) 末期から正保(しょうほ) 初期(1615ころ)にかけて博多の豪商・大賀宗九(おおがそうく)・ 宗伯(そうはく) 父子が現在地に移し宗九ば開基としたとゲナ。

 庵内の虚白院(きょはくいん) は文化(1804年〜)・文政年間、隠居した仙崖さんのおんなったところ。最近、都市高速から見ると普請されて綺麗になっとるごたるケン、中ば見てみたかと思うて行ったとバッテン「拝観謝絶」

 なし禅宗の坊主はこげんカタカとかいな。大賀宗九父子の墓もあるげなバッテン、これも拝観でけん。
 仏殿は天正17年(1589) 耳峯玄熊によって中興されていわれとる。正面三間の桟唐戸は外に開く。両端には丸窓があるけど、これは黄檗宗の影響と云うよりも栄西禅師が渡った南宋の寺では丸窓が多かったけんらしか。

 天井には狩野永真作の「雲龍図」が描かれとって中央須彌壇には、ここのご本尊である三世仏が鎮座しとんなる。釈迦仏は鎌倉末期の作と伝えられ、両脇の弥陀仏・弥勒仏は江戸期の作ていう。

 
現在、寺では平成26年の栄西禅師八百年遠諱大法要に向けて、開山当時の丈六(4m80cm)の三世仏ば再建しよんなる。平成18年には阿弥陀仏が、平成21年には弥勒仏が開眼し、平成24年には釈迦仏が開眼の予定で、募金活動がされとった。   (金ピカに再建された両わきの阿弥陀仏と弥勒仏。真ん中がこれから。撮影・平成22年3月)

 2010年2月山門の前にある無染池(むせん)の改修工事が完成してきれいになった。滝の流れる築山と取り外しのでける水上舞台などが整備された。

 池は外周約88mのひょうたん形。水ば循環するごとしたケン、すっきりした池になった。檀家(だんか)やらJR九州などの地元企業などが奉賛会ばつくって、約2,600万円の募金ば集め、昨年10月末から工事ばしよんなった。

 築山には聖福寺仏殿で再建中の三世仏(仏の現在、過去、未来の姿)ばイメージしたていう三尊石(さんぞん)ば置いた。 

 場所・福岡市博多区。地下鉄空港線ば「祇園」で降りる。地上に出てきたら大博通りで東長寺の五重塔が見えるはず。祇園町の信号から一筋東へ入って左折する。                  取材日 2006/2007.03.24 
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