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薩摩の名君 島津斉彬の産業ギャラリー      「鹿児島県」の目次へ

 桜島の眺めが良か錦江湾の、磯公園(仙厳園)の隣に並んで、薩摩藩・島津斉彬が力ば注いだ尚古集成館がある。

 島津斉彬(なりあきら)、文化6年(1809)、江戸芝の藩邸で、27代島津斉興(なりおき)の長子として生まれた。

 子供の頃から聡明で、知識欲の旺盛な子やったケン、そのままいっとれば、早くに薩摩藩のあとば継ぐはずやった。

 ところが、どっこい・・・

 父の斉興には、江戸の八百屋の娘やったお由羅(ゆら)ていう側室がおって、こいつが自分の産んだ息子(久光)のほうば藩主にしょうて画策するっタイ。

 親父の斉興も重臣達もお由羅の味方やったいうケン、たまがるっちゃが、それはクサ、聡明な斉彬が蘭癖大名ていわれた25代重豪(しげひで)の影響ば受けて、世界の動きまで見据えた男に育っとったけんタイ。

 やっとこっと財政改革に成功した薩摩藩にとって、新らしもん好きの改革経営者・斉彬が藩主になったら、またなんばしでかすか分からんていう怖さがあつたとかも知れん。

 で、薩摩藩は藩主交代ばめぐる大騒動になつた。これが有名な
お由羅騒動とか高崎崩れとかいわれるもんタイ。

 それに巻き込まれたもんやケン嘉永5年(1851)、やっと28代藩主になった時、斉彬はもう47才になっとった。
     ・・・・・バッテン、藩主になった途端、斉彬は積極的に動き出す。

 そのひとつが集成館事業やった。そんなら、集成館事業ちゃなんかいな。

 アヘン戦争で中国が東洋一の大国でありながら、イギリスから準植民地化されてしまうとば見とって、西欧諸国の威力ば冷静にとらえとった斉彬は、日本が植民地にならんためには、西欧諸国の技術ば導入して、西欧に負けんごたる軍事力ば身につけとかないかんて思うとった。

 斉彬は、富国強兵、殖産興業ばスローガンにして、現在の鹿児島市磯の浜にアジア初の近代洋式工場群ば建設して、研究と生産ば始めた訳よ。

 紡績からガラス、通信、印刷て、なんでもかんでも手がけたバッテン、特に力ば入れたとが製鉄・造船やった。

 鎖国政策やった幕府に、日本の危機ば訴えて造船ば解禁させ、洋式帆船の「昇平丸」ば作ったり、反射炉やら溶鉱炉ば築いて大砲も作った。外国の資料ば翻訳しながら、すべて自前の純国産やった。

 その集大成が、仙厳園とこの建物の中にぎっしりと詰まっとる。西洋かぶれの殿様ていわれながら、日本の近代化につくした斉彬の、これは産業ギャラリーたい。

 この尚古集成館一帯は、昭和34年(1959)に
国の史跡に指定され、慶応元年(1865)に建てられた機械工場の建物(現在の本館)は、昭和37年(1962)に国指定重要文化財に指定された。

 凝灰岩ば削ってモザイクに積んだ壁、亀腹石ていわれる壁の裾(写真・上右)が美しか。
 本館入り口のポーチは大正時代、展示館にしたときくっつけた。刑務所の設計で有名か山下啓二郎の作ゲナ。
 どおりでなんか刑務所のごとなってしもうた。

 大正12年(1923)に博物館として開館した尚古集成館には、島津家伝来の史料を中心に、文書や書画ばはじめ歴代の当主らの鎧、薩摩切子や薩摩焼などの工芸品、機械類など約1万点がありこなんぱち収蔵されとる。

 平成元年(1989)には本館に並んで別館が建設され、本館は常設展示、別館は企画展示になつとる。平成17年には平成の大改修いうて、本館のリニューアルばしとんなる。

 鹿児島のためだけじゃのうて日本のためにも大きな功績ば残しながら、斉彬はたったの7年で死んでしまう。

 斉彬の死後、薩英戦争が起こったとき、見事イギリス艦隊ばやっつけたことで、斉彬の集成館事業の先見性は見直された。あの世で斉彬がつぶやいた。「ほーら、みてんやい、おれが云うたとおりやったろうが」

日の丸の旗は斉彬が建造した昇平丸の総船印やった
 
幕府に洋式軍艦建造の禁ば解かせ、桜島の造船所ででけあがった昇平丸ば、斉彬は幕府に献上した。
 安政2年(1854)2月13日、江戸に向けて進水していった昇平丸のマストには、
総船印の白地に赤い丸の旗が掲げられとった。総船印いうたら、船ば区別するための旗のこと。
 のちに斉彬の進言で幕府は昇平丸の旗ば日本の総船印とした。これが「日の丸」で国旗にまでなったとタイ。

 「白地に赤く 日の丸染めて ああ美しい 日本の旗は」て、子供の頃歌うたもんタイ。

写真も好きやった斉彬
 黒田藩の11代藩主・黒田長溥(ながひろ)はクサ、薩摩藩主・島津重豪と側室千佐の方との間にでけた子やった。ていうことはバイ、斉彬が重豪の孫やケン、斉彬にとっては叔父さんていうことになる。叔父さんいうても年がひっついとったし、いっしょに育てられたケン、兄弟のごと仲がよかったらしか。

 のちに長溥は黒田藩の跡継ぎがおらんやったもんやケン、黒田に養子に来て藩主になった。ともに重豪の薫陶ば受けとるもんやケン、いわゆる新しもん好き、悪う云えば西洋カブレやったらしい。

 駅長の曾爺さんが藤野良泰いうて、黒田藩の産婦人科医でクサ、長溥から見込まれて、長崎に写真やら舎密(化学)ば勉強しに派遣されとんなったゲナ。長溥が斉彬からもろうたカメラ一式ば預かっとったこともある。

 藤野産婦人科はむかしの市小路、いま原三信病院のとこにあったていう。このあたり一帯は黒田藩の蘭学メディカルセンターやった。藤野産婦人科は、当時の個人病院としては堂々たるもんやったらしか。
 良泰さんは「安産手引草」ていうお産のマニョアル本ば出したりして有名やったバッテン、藤野産婦人科は跡継ぎがおらずに3代限りでしまえた。

 場所・鹿児島市吉野町。鹿児島市の中心から国道10号線で約4km、錦江湾に沿って走る。トンネル越したらすぐ左タイ。集成館見るとは、仙厳園の入場券とセットで大人1,000円。駐車場が普通車300円。   取材日 2007.8.9

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