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こん中に酷使された囚人達がおった       「福岡県」の目次へ
 福岡県登録有形文化財

 大牟田の三池工業高校の敷地は、むかしの三池集治監(みいけしゅうじかん)跡。今でもレンガ塀やら、石垣ばそのまま使いよる。
 また例によって集治監ちゃなんかいなバッテン、集治監ていうとは地方監獄とは別に、重刑のもんばっかりば収容するための監獄タイ。「集めて治め治す監獄で集治監」 国が直接管理しとった。明治の人間は難しかバッテン、ヨカ言葉ば作るねぇ。 
写真はその残っとるレンガ塀。

 三池集治監は、明治16年(1883)に作られ、西日本ではここだけやった。
 西日本各県の監獄から刑期が12年以上の囚人が集められたていう。

 なし三池に集治監が作られたとか。
 当時国が管理しとった三池炭鉱で、安定的な労働力が必要やったけんタイ。
 2000人の囚人がここに収容されて、主に三池炭鉱での採炭作業ばさせられよったゲナ。

 その後、名前が三池監獄、三池刑務所と変わり、宮原坑が閉坑したもんやケン、人が要らんごとなって、昭和6年(1931)に刑務所もしまえた。むづかしゅういうと「閉庁」したていうこと。

 昭和10年(1935)、三池工業高校の前身やった三井工業学校が、現在地に移ってきて、いまも学校が使いよる。
刑務所時代の建物は壊されてしもうて跡形もなかバッテン、レンガ造りの外塀、石垣の一部はそのまま残されとる。

 レンガ造りの外塀は明治28年(1995)頃に完成したとゲナ。このレンガは東京の小菅集治監から移送されてきた技能囚達が焼いた、ていわれとる。

 そのレンガ塀は、三池工業高校の敷地、東側と西側に残っとる。高さ約5m、幅約50cm〜1m。レンガの積み方は長辺と短辺が交互のイギリス積み。レンガの表面にモルタルが塗られとるバッテン、これは戦後にされたものらしか。西側の塀にはアーチ状の非常口の跡も残っとる。

 敷地北東側に残る石垣も集治監時代に積まれたものゲナ。これには地元で産出される通称「七浦石」(砂岩)が使用されたていう。

 三池工業高校の敷地の中に断って入ると、西端の壁際に大牟田市教育委員会が作った 説明板が立っとって、いま云うたことが標準語で書かれとる。

 福岡県の有形文化財(建造物)に指定されたとが平成8年5月31日。 正式な物件名は「旧三池集治監外塀及び石垣」 所在地は大牟田市上官町4丁目77番地てなっとる。

 塀の中には、正面入って右側に工場群、左側に獄舎8棟、正面に事務所、庁舎などがあったゲナ。

 江戸時代の刑罰は追放刑やったバッテン、明治になると自由刑が採用されるごとなった。自由刑とはなんかいうたら、犯罪者の社会生活での自由ば取りあげてしまう刑罰タイ。

 追放するっちゃなかケン、監獄が要るごとなった訳。自由刑の考え方は、犯罪者ば監獄に拘禁することで、社会ば守る一方、監獄ではなんらかの作業ば強制させながら、作業ば通じて犯罪者ば教育・改善(矯正ていう)するていう意味があった。

 駅長が勤めとった印刷会社でも、刑務所の中に何棟かの作業場ば持っとって、囚人に仕事ばしてもらいよった。囚人(作業員ていいよった)のなかには刑務所の中で仕事ば覚えて、出所したら印刷の仕事についた人間もおった。まじめに更正した人間が生まれるいうのは嬉しかことやった。

 しかし、当時の三井集治監の受刑者は、相当ヒドい待遇やったて、いう話が残っとる。仕事ば教えるとか更正させるとか目的て国はいうもんの、これは表向きタイ。地下の切羽で地獄の労働ば強いられとったに違いなか。

 三池以外の集治監はどうやったとやろう。
 最初に設置された集治監は、東京小菅と宮城やったゲナ。 東京集治監は、明治12年(1879)に、内務省直轄の集治監として小菅に建てられた。

 当時の日本は、全国的に政情不安で(佐賀の乱、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争)、政府は東京周辺での不穏な空気に対処するため集治監ば造り、国事犯やら政治犯ば収監したっタイ。

 その後は、明治16(1883)年設置の三池集治監以外は、全て北海道に作られとる。これは重罪のもんば遠かとこに集めるていう目的のほかに、囚人ば北海道開拓にあたらせるていう国策もあった。そのため三池集治監の囚人が三池炭鉱の採炭に使役されたごと、北海道の囚人も、農地開拓やら道路建設などに使役されたていう。

 網走番外地で有名になった網走刑務所は、始め「北海道集治監網走分監」やったゲナ。明治23年(1890)開庁。明治36(1903)年網走監獄と改称され、現在は網走刑務所ていいよる。

 当初はおもに北海道中央道路ば開くために作られ、北見、網走間156kmの道路建設に囚人が使役されたらしか。
 半年間の道路工事に1,115人が狩り出され、死亡者186名、罹病者914名の犠牲が出たぐらいヒドかったらしか。

 七浦坑やら三池坑で働かされよった三池集治監の囚人も、相当ひどかもんやったろうていうことが、よその事例でも想像でける。

上と左・刑務所の壁がなんで文化財かて思うやろう。
 バッテン、実際に行って見てみんしゃい。赤レンガの上ばモルタルで塗っとんなったとがハゲとってクサ、こんなかで囚人達がどげな生活ばしよったとか、外に咲いとる桜ばどげな気持ちで見とったかて思うと、やっぱあ一種の感慨が湧いてくるもんタイ。

グラウンドからは、そげなことはなぁーも知らん高校生達の明るか歓声が聞こえてきよった。

 場所・大牟田市上官町。国道208号線で大牟田市内にはいったら、「築町」の信号で(北からなら左折、南からなら右折) 1,5kmの右側三池工業高校がある。ぐるっと東側・西側に回り込めばレンガ塀がある。レンガ塀は外から見るだけなら自由に見学できる。敷地内に入る場合は、高校の事務室に申し出ればよか。    取材日 2008.04.15

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