昭和10年(1935)、三池工業高校の前身やった三井工業学校が、現在地に移ってきて、いまも学校が使いよる。
刑務所時代の建物は壊されてしもうて跡形もなかバッテン、レンガ造りの外塀、石垣の一部はそのまま残されとる。
レンガ造りの外塀は明治28年(1995)頃に完成したとゲナ。このレンガは東京の小菅集治監から移送されてきた技能囚達が焼いた、ていわれとる。
そのレンガ塀は、三池工業高校の敷地、東側と西側に残っとる。高さ約5m、幅約50cm〜1m。レンガの積み方は長辺と短辺が交互のイギリス積み。レンガの表面にモルタルが塗られとるバッテン、これは戦後にされたものらしか。西側の塀にはアーチ状の非常口の跡も残っとる。
敷地北東側に残る石垣も集治監時代に積まれたものゲナ。これには地元で産出される通称「七浦石」(砂岩)が使用されたていう。
三池工業高校の敷地の中に断って入ると、西端の壁際に大牟田市教育委員会が作った 説明板が立っとって、いま云うたことが標準語で書かれとる。
福岡県の有形文化財(建造物)に指定されたとが平成8年5月31日。 正式な物件名は「旧三池集治監外塀及び石垣」 所在地は大牟田市上官町4丁目77番地てなっとる。
塀の中には、正面入って右側に工場群、左側に獄舎8棟、正面に事務所、庁舎などがあったゲナ。
江戸時代の刑罰は追放刑やったバッテン、明治になると自由刑が採用されるごとなった。自由刑とはなんかいうたら、犯罪者の社会生活での自由ば取りあげてしまう刑罰タイ。
追放するっちゃなかケン、監獄が要るごとなった訳。自由刑の考え方は、犯罪者ば監獄に拘禁することで、社会ば守る一方、監獄ではなんらかの作業ば強制させながら、作業ば通じて犯罪者ば教育・改善(矯正ていう)するていう意味があった。
駅長が勤めとった印刷会社でも、刑務所の中に何棟かの作業場ば持っとって、囚人に仕事ばしてもらいよった。囚人(作業員ていいよった)のなかには刑務所の中で仕事ば覚えて、出所したら印刷の仕事についた人間もおった。まじめに更正した人間が生まれるいうのは嬉しかことやった。
しかし、当時の三井集治監の受刑者は、相当ヒドい待遇やったて、いう話が残っとる。仕事ば教えるとか更正させるとか目的て国はいうもんの、これは表向きタイ。地下の切羽で地獄の労働ば強いられとったに違いなか。
三池以外の集治監はどうやったとやろう。
最初に設置された集治監は、東京小菅と宮城やったゲナ。 東京集治監は、明治12年(1879)に、内務省直轄の集治監として小菅に建てられた。
当時の日本は、全国的に政情不安で(佐賀の乱、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争)、政府は東京周辺での不穏な空気に対処するため集治監ば造り、国事犯やら政治犯ば収監したっタイ。
その後は、明治16(1883)年設置の三池集治監以外は、全て北海道に作られとる。これは重罪のもんば遠かとこに集めるていう目的のほかに、囚人ば北海道開拓にあたらせるていう国策もあった。そのため三池集治監の囚人が三池炭鉱の採炭に使役されたごと、北海道の囚人も、農地開拓やら道路建設などに使役されたていう。
網走番外地で有名になった網走刑務所は、始め「北海道集治監網走分監」やったゲナ。明治23年(1890)開庁。明治36(1903)年網走監獄と改称され、現在は網走刑務所ていいよる。
当初はおもに北海道中央道路ば開くために作られ、北見、網走間156kmの道路建設に囚人が使役されたらしか。
半年間の道路工事に1,115人が狩り出され、死亡者186名、罹病者914名の犠牲が出たぐらいヒドかったらしか。
七浦坑やら三池坑で働かされよった三池集治監の囚人も、相当ひどかもんやったろうていうことが、よその事例でも想像でける。
上と左・刑務所の壁がなんで文化財かて思うやろう。
バッテン、実際に行って見てみんしゃい。赤レンガの上ばモルタルで塗っとんなったとがハゲとってクサ、こんなかで囚人達がどげな生活ばしよったとか、外に咲いとる桜ばどげな気持ちで見とったかて思うと、やっぱあ一種の感慨が湧いてくるもんタイ。
グラウンドからは、そげなことはなぁーも知らん高校生達の明るか歓声が聞こえてきよった。