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中田神父の苦心作、鉄川与助の自信作              「長崎県」の目次へ

 長崎のキリシタンば語るとき、忘れてはならん人がおんなる。
 その名はマルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)。通常
ド・ロ神父

 フランス人の宣教師で、明治元年(1868)大浦天主堂に来なった。初めは大浦に羅典(ラテン)神学校ば建てたりしよんなったとバッテン、明治12年(1878)隠れキリシタンの多かった外海の主任司祭として赴任してから、30年以上、出津教会ば拠点にして、布教に福祉事業に活躍しなった人タイ。

 明治19年(1886年)から、ド・ロ神父は、黒島教会のラゲ神父といっしよに、原野やったここ田平の土地ば私費で購入しなった。当時この田平は、キリシタンのおらん地域やったとい、なんでやったっちゃろうか ?

 その訳はこうタイ。
 外海やら黒島では人が増えても、土地が狭かケン子供達に分けてやる田畑がなかった。それで田平に土地ば買うて、出津から19家族、黒島から3家族の信徒ば移住させなったとタイ。

 信者が
苦労して開墾した畑は水持ちが悪く、オマケに酸性土壌やったもんやケン、米も野菜も育たんやったゲナ。酸性の土地ば中和するとには石灰が要るとやが、それも買えんケン、海岸から藻ば運んで土に敷き込んだていう。

 入植当初は、芋とカンコロだけば常食にして頑張ったていう話しが残っとる。ただ平戸島に向かいあうた土地やケン、海の幸には恵まれとったゲナ。
 開拓者の苦労はどこでもいっしょやねぇ。

 それからだんだん、外海、黒島、五島、平戸からの自費移住者が増加し、信徒の数も増えていったいうことタイ。
 明治20年(1887)には粗末な木造の小屋のごたあところで、ラゲ神父による初めてのミサが行われたていう。

 明治21年には仮御堂が建てられ。明治38年、初代の高岡神父が、現在の敷地に教会ば建てる準備ば始めなったていう。

 大正3年、そのあとば引き継いだ中田藤吉神父(1872〜1956)が、42歳で五島の仲知(ちゅうち)教会から着任しなったら、「何とかして自分たちの煉瓦造による本格的な天主堂ば作りたか」ていう本格的活動が始まった。

 バッテン、
信徒が永年積み重ねてきた寄付金ば全部集めても、2万円の建築資金には足らん。一戸当たり、20円、120円て拠出金ば割り当ててもとうてい足るもんかい。

上・重厚な色合いの鐘塔の正面は夕陽が順光になる。手の込んだ色出し煉瓦がアクセントになっとる。
右・生月「山田教会」の「悲しみのマリア」と違うて、ここのマリアは穏やかなほほえみで迎えてくれる。
 

 平戸島の紐差におらっしゃつたマタラ神父(1856〜1921)に相談しなったら、マタラ神父が母国フランスの人々に寄付ばお願いしてやんなった結果、ひとりの資産家から匿名で4000円の寄付ばあおぐことがでけた。

 中田神父は更に信徒一人一人に資金作りば説得し、イカ漁ば勧めるなどして何とか資金ば確保することが出来たていう。

 1人当たり200日分の労力奉仕もあって大正7年(1918)いまの教会が完成する。

 初めての移住者が田平に入植しなってから、32年ていう年月が経っとった。

 設計施工は、教会建築では有名な鉄川与助。5月14日に落成した赤煉瓦造りの教会堂正面には、どっしりとした鐘塔がそびえとった。


 戦争中の昭和20年(1945)には、教会が兵舎に転用されたり、7月には米軍戦闘機から機銃掃射ば受けたことがある。
 バッテン信仰は堅く守り受け継がれた。 
 現在は南田平(瀬戸山)、平戸口、下寺など3つの教会に2000人近か信徒がおんしゃあゲナ。

 田平教会の内部は三廊式で、円柱にはコリント風の柱頭飾りが施され、その上には円形のリブ・ヴォルト天井(いわゆるコウモリ天井)が乗っとる。

 教会の造りには木造、煉瓦造、土・石造、コンクリートてあるバッテン、田平教会は与助が作った
煉瓦造教会の中で、最も完成度が高っかもんとして評価されとる。
 与助自身も生前「こらあ、あたしの自信作ですもん」ていいよんなったゲナ。

 教会のデザインは、大刀洗の今村天主堂と比べ、直線の構成が多か。そして細かい装飾がされとる。
 煉瓦の使い方に特徴があってイギリス積みの変型で、正面、側面、背面で、煉瓦の積み方が違う。

 煉瓦は船積みして来たもんば、海岸から500メートルも離れとるこの山の上まで、大人も小さな子供も、信者が総出で運びあげなったらしか。信仰の力ちゃ恐ろしか。

 また、色の濃いアズキ色の煉瓦ば使うて、これが色のアクセントになっとるバッテン、この色の黒か煉瓦は、信者が家庭のナベや釜の煤(すす)ば集めて、油に混ぜ、いちいち塗って色ば出しんしゃったとゲナ。

 今のステンドグラスは、上の方が、平成10年(1998)2月に完成した。

 イタリアミラノのアレッサンドロ・グラッシ(Alessandro Grassi)社製。

 下の方の花模様は、十数年前のアメリカ製げなバッテン、全体としてみたらなんかアンバランスやったケン、駅長は上の新かとだけしか撮さんやつた。

 ステンドグラスの絵は、よくある「十字架の道行き」かと思うたら、そうじゃのうして聖書からそれぞれの題材ばとって作成されたオリジナル作品ゲナ。

 祭壇に向かって右側の窓は、入口から祭壇に近づくにつれて、人間の生涯が神ば通して、深められていくいうことが表わされとるとらしく、 左側の窓は、教会が神の命に強められ成長していく過程ば表現しとるとげなバッテン、信者じゃなかもんにはようわからん。

 正面の中央は三位一体の神ば表すドイツの伝統的な絵柄ゲナ。

 正面の両側は、田平教会の保護者である日本二十六聖人ば表しとるていうことらしか。そういえばこの教会は、場所にちなんで瀬戸山教会てもいうし、日本ニ十六聖人殉教者教会てもいう。


下・田平天主堂の入口には、貝殻焼き場が残されとる。
 こらなんやろかて思うたら、ここでたくさんの貝殻ば焼いて粘土に混ぜ、れんがの目地(めじ)に使いなったとゲナ。

上左・柱頭の飾りと円形リブ・ヴォルト天井(こうもり天井)
左。明るい祭壇のデザイン。
下・祭壇上のステンドグラスには朝日があたるごとなっとる。真ん中が三位一体の神。両脇の2枚が26聖人。
下左列・左側廊下のステンドグラス。上から祭壇に近い順。右列も同じで、下になるほど入口に近うなる。
 実際は新かステンドグラスの下に、十数年前のもんていう花柄のステンドグラスが2枚づつはめられとるとバッテン、やっぱあ新かとが美しかったケン、上だけば撮ってきた。

 場所・平戸市田平町。福岡からやったら、唐津から国道202号線で伊万里の二里大橋ばわたって右折。国道204号線で松浦市ば抜けて平戸口、平戸大橋渡らずに1kmで県道へ右折、北松農高の前ば通って2kmで正面に教会が見えてくる。2008年5月いっぱいは屋根工事のため外は写真にならん。内部は撮影自由。駐車場はタダ。     取材日 2008.03.28

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