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煙が出ん煙突は月が出ても寂しかと       「福岡県」の目次へ

 月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ)
 三池炭坑の 上に出た
 あまり煙突が 高いので
 さぞやお月さん けむたかろ(サノヨイヨイ)

 誰でも知っとる炭坑節。

 歌詞に出てくる「三池炭坑」いうたら大牟田の三井三池炭坑のことバッテン、炭坑節にでてくる煙突は、
三井田川炭坑伊田坑の大煙突やったとバイ。

 もっとも、大牟田の三井宮浦坑にも、有形文化財指定の大煙突が1本あって、話はちょっとややこしか。

 炭坑節は、むかし伊田村(現在の田川市)にあった伊田坑でクサ、石炭からボタば取り除く作業(選炭)ばしよった女性労働者達が歌うとった「伊田場打選炭唄」「ゴットン節」が元になっとるとゲナ。

 これば田川郡在住の小学校教師やった小野芳香さんが、明治43年(1910)に編曲しなって、昭和7年(1932)に初めてレコード化されたとらしか。

 戦後、昭和23年(1948)年に、赤坂小梅がレコードに吹き込んだ頃、石炭増産の世相もあって、いっきにヒットしたとタイ。

 知名度が高まったとは、よかったバッテン、一部の出版物で歌詞ば「三池」て間違えたもんやケン、三井三池炭鉱で生まれたとのごと広がってしもうた。


 で、この大煙突じゃが・・・
 福岡県の
美しいまちづくり景観賞「大賞」に選ばれたり、登録有形文化財になったりして、ここんとこ話題になって忙しかと。    左・補修前の大煙突


 ちょっとまじめに説明すれば、明治38年(1905)三井は田川開発の切り札として、伊田坑ば堀り初めた。その頃はまだ、動力として電力は使われとらんで、使用されたとは蒸気機関やった。

 そのため、焚いた石炭の排煙用として、明治41年(1908)この巨大な二本煙突ば作ったいう訳よ。高さは45.45m、直径は下で5.6m、 上部3.1メートル。使用したレンガはなんと、21万3千枚、そのうち18万1千枚はドイツからの輸入やったいうケン、ドイツ製みたいなもんタイ。

 当時としては大規模なもんやったケン、筑豊のもんなぁ、たまぐり返った。と同時に、石炭景気のシンボルやった。
 「赤い煙突目当てに行けば、米のまんまは食い放題」ていう言葉が流行ったぐらい、活気のあった筑豊やった。

 バッテン、今なら公害いうておおごとバイ。さぞやお月さんも煙たかったろうが、住民なあもっと迷惑やったろう。

 炭坑節は労働歌てもいえるバッテン、ほんなこたあ公害反対ソングやったとかも知れん。 
 駅長が若っか頃、大牟田に出張したら1日でYシャツの襟が真っ黒うなりよったもんねぇ。

 明治42年(1909)伊田坑は、竪坑櫓(左の写真)も完成させる。高さ約23mの鉄製で、イギリス様式のバックステイ形ていうとゲナ。

 地下約300メートルとの間でケージ(かご)ば昇降させて、石炭やら作業員ば運びよったっタイ。

 「日本三大竪坑櫓」の1つていわれとって、昭和39年(1964)の閉山後も、田川市のシンボルとして親しまれてきとったと。

 2006年11月、田川市が三井鉱山から無償譲渡ば受け、文化財登録ば申請しとったら、大煙突といっしょに指定ば受けた。

 筑豊に残された唯一の竪坑関係遺跡やケン「やったぁ」て田川市は喜びなったとバッテン、大煙突の表面が劣化してきよって、レンガがぼろぼろ剥げて落ちだしたもんやケン、修復するとい3700万円もかかるいうて、いま頭抱えとんなる。

 石炭とともに発展した筑豊。なかでも、三井田川炭鉱は、年間100万トンば越す出炭量で、大牟田・荒尾の三井三池炭鉱とともに日本有数の炭鉱やったとバッテン、石炭から石油に変わっていく、世界のエネルキー事情はどげんもでけんで、とうとう、昭和39年(1964)には閉山されてしもうた。

 二本煙突も完成後まもなく、坑内動力は蒸気機関から電力へと合理化されて、だんだんいらんごとなっていった。病院やら炭鉱住宅の風呂焚きの排煙用として生き延びとったバッテン、昭和39年の閉山で、とうとうその役目も終わった。

 60年近く働いて、100年以上もずーっと立っとっちゃケン、草臥れもしとろうタイ。
 いっとき横いなって休みんしゃい・・・・て、云うわけにもいかんか。

田川市石炭・歴史博物館には、全盛期活躍した炭坑関連の機械が展示されとる。

その頃石炭の運搬に活躍した蒸気機関車も、貨車やら腕木式信号機と一緒にみられる。

 今でこそ西武ライオンズの応援歌は「吠えろライオンズ」バッテン、西鉄ライオンズの頃の応援歌は「炭坑節」やった。

 坑夫の像やら、炭坑節の碑、当時のまま復元された炭住(炭坑マンの住宅)もある。炭住のなかに人が見えたケン、近づいてみたら、なんとようでけた蝋人形やった。

 2008.11.1
 旧三井田川鉱業所伊田坑第一(むかって右側)と第二煙突は、建造して100年も経ったもんやケン、老朽化して表面のレンガがとれそうになってきとった。

 国の有形文化財に登録されたりしたもんやケン、田川市は2007年の9月から全面補修にかかっとった。

 ドイツやら岡山で焼かれた赤レンガが、一本の煙突の表面に約6万個使われとるげなが、櫓組んで本職が登ってよう見たら、約2割が浮いてしもうとったゲナ。レンガば全部取り外して、ウレタン素材の防水幕ば貼って、またレンガば戻すとい9ケ月かかった。

 補修完成と建造100周年、有形文化財指定に、世界遺産暫定一覧表の「九州・山口の近代化産業遺産群リスト」に記載されたことやら、なんもかんも併せて、
「第3回TAGAWAコールマイン・フェスティバル(炭坑節まつり)」でライトアップされた。

 水銀灯やケン、スイッチオンしてもすぐにパッとは光らんやったバッテン、ツインタワーは淡い光に照らし出され、旧産炭地・田川のランドマークとして立派に浮かび上がった。

 

 昼、後ろの丘(丘いうても昔はボタ山やった)から見ると、田川の町と福知山山系ば借景にして堂々としとる。これだけ立派になったら、もういつ世界遺産になってもおかしゅうはなかバイ。右側に削り取られた香春一の岳から三の岳、牛斬山も望まれる。
 45mのテッペンには長う保つごとステンレスば被せたゲナ。 

 場所・田川市。田川市に入れば、どこにもここにも「田川市石炭・歴史博物館」て案内のしてあるケン、迷わずにいける。伊田坑あとの敷地の中に、資料館・大煙突・竪坑やぐら、SLほか石炭に関係する展示がキチンとされとる。
 毎週月曜休館。入場料210円。ただし煙突・やぐら・SLなどはタダで見られる。
取材日 2007.2.4 / 2008.11.1

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