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菊池川の「裏川」に架かる歴史の橋
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県指定重要文化財 | |
高瀬目鏡橋(たかせめがねばし)は、玉名市高瀬下町にある県指定重要文化財の眼鏡橋。 それまでは土橋がかけられとつたとバッテン、7〜8年ごとに造り直さなければならんやった。 こうしたこともあって、「高瀬町は、江戸時代米ばはじめとする農産物などの集散地(港町)として繁栄した。 町並みは、上町から下町に至る本通り筋があり、人工の河川やった裏川から直接荷物の上げ下ろしができるようになっとった。 また、渡し場が、現在の高瀬大橋付近にあって、この眼鏡橋は当時町の玄関として象徴的な存在やったていわれとる。 いま、高瀬眼鏡橋のまわりは「高瀬裏川水際緑地公園」 となり数百メートルにわたって花ショウブ が植えてある。6月初旬の花ショウブが咲く時期にはライトアップまでされとる。 高瀬眼鏡橋から約100m下流に秋丸眼鏡橋いうとがある。この橋はもともと天保3年(1832) 高瀬大橋から700m上流の、菊池川から分かれとる運河、裏川に架設されとった。阿蘇溶結凝灰岩でできとって、全長11.7m、幅は樋門ば含めて6.45mあった。 秋丸眼鏡橋 ← 高瀬眼鏡橋から秋丸眼鏡橋ば見る。 ← 橋脚が頑丈な高瀬眼鏡橋の石組み。 | |
小兵衛は寡黙で思慮深く兄の隆盛ば慕い、隆盛も歳の離れた弟ば愛し、いつも自分の傍に置いとったていう。訃報ば聞いた隆盛は暫く呆然として悲嘆にくれ、一説によると隆盛自ら遺体ば引き取りに来たてもいわれとる。 西郷小兵衛戦死の地は今はのどかな川の畔で、そこに碑が立つ。 西南の役・高瀬の戦い 高瀬一帯は明治10年の西南の役では、北上ば図る薩摩軍と、それば阻止しようとする官軍が2月27日に高瀬で激突。 両軍合わせて約7000人の兵が動員され、高瀬町、永徳寺村あたりは激戦地となり、高瀬町の西半分は焼失してしもうたていう。 この戦闘は激戦で、薩軍の1番大隊小隊長やった西郷隆盛の末弟西郷小兵衛は繁根木川の堤防で戦死しとる。 小兵衛は薩軍総大将の弟でありながら小隊長として最前線で軍を指揮。ここでも堤防上で旗ば振り指揮したていう。小兵衛は銃弾ば胸に受けて戦死。31歳の若さやった。 銃弾に倒れた小兵衛ば担ぎだすために、薩摩兵たちは近くの家から雨戸1枚ば貰い受け、それに乗せて高瀬川ば渡り、桃田方面へ退却した。 そのほか大勢の薩軍諸将が戦死した。高瀬町や,旧弥富村の民家には当時の銃弾の跡や、刀傷が残されとるゲナ。 高瀬城跡の西側には、高瀬の激戦で死んだ勇士395柱の官軍墓地があり、昭和41年、合祀塔に改装されて祀られとる。 高瀬の会戦は田原坂の戦いが目立つもんやケン、影に隠れがちバッテン、西南戦争の関ヶ原ていう見方もある。 これは薩軍主力が政府軍主力に対して攻勢に出た最初の会戦。そして政府軍が薩軍をはじめて撃退した戦いやった。薩軍はこの会戦で撤退して終わることになった。 ↓ 高瀬の戦いで戦死した兵士の供養塔。 ↓ 西郷小兵衛の墓。 西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)いうとは、明治10年(1877)に現在の熊本・宮崎・大分・鹿児島県において西郷隆盛ば盟主にして起こった士族による武力反乱。 明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦やった。 鹿児島では丁丑戦(ていちゅうせん・ひのとうし)として語られとる。 | |
場所・玉名市高瀬下町。太宰府ICから九州自動車道ば菊水ICまで南下。66km。42分。ETC 1,930円。出たら県道16号線ば約5km南下。新幹線ば越したら500mの「河崎」信号ば直進、約800m菊池川の右岸ば走り「玉名市高瀬大橋西」信号ば直進50mで右折。 取材日 2007.6.4 | |
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