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竹田市周辺でいちばん古か3連アーチ橋 「大分県」の目次へ | |
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竹田市北部の飛田川地区にある「山王橋」。この橋は明治38年の日露戦争に勝ったとば祝うて架設の計画が立てられ、 明治39年に着工した。ところが完成目前の同年6月に大洪水でぜぇーんぶ流出してしもうた。 山王橋の特徴は上流側にある水流の強さば和らげる水制工(すいせいこう)のつくりが豊後大野市緒方町の石橋などとは異なり丸みば帯びていること。水制工いうたら水の勢いばそらすための石の組み方タイ。 竹田市近辺の橋は明治後半から昭和初めまでに架けられた比較的新しか石橋が多く、その中ではこの山王橋がいちばん古か3連アーチの石橋。 | |
場所・大分県竹田市飛田川。太宰府ICから九州自動車道ば熊本ICまで92km、60分、2590円。インター出たらそのまま国道57号線ば阿蘇通り越して約60km、竹田市に入って「天神」の信号ば左折。県道638号線を2kmばかりあともどりすると左手にある。 取材日 2008.9.11 | |
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若宮井路笹無田石拱橋(わかみやいろ ささむたせっこうきょう)は、大分県竹田市挟田の笹無田川に架かる石造り2連アーチの水路橋。 竹田市の稲葉川から取水した水ば、現在の大分県豊後大野市朝地地区に送水する若宮井路の一部として、笹無田川と道路ば越えるために設けられた水路橋で、橋長は59.0m、巾が4.0m、橋高30.0m、径間21.5mと非常に大きなアーチで構成された巨大な橋。 若宮井路の歴史はまず明治8年(1875) 伊東俊次郎が自らの財産ばなげうって井路開鑿のための測量ば始めた。 明治23年(1890) 俊次郎は15年かけて測量ば行い若宮井路の計画図ば作り、完成したあとの恩恵ば地区の人々に説明するバッテン相手にしてもらえん。俊次郎は井路造成の夢が実現せんまま2年後に亡くなってしまう。 明治26年(1893) 日照りが続いて作物ができんやった。人々は俊次郎の計画ば思い出した。そして井路造成の機運が盛り上がり「若宮井路普通水利組合」いうとが設立される。 明治33年(1900) 若宮井路の工事が始まった。毎日千人以上が働いたて伝えられとる。1年後に若宮井路完成。通水開始。 明治36年(1903) 笹無田のサイフォン、鉄管が錆びて漏水が激しくなったケン、木製の橋に造りかえる。 大正4年(1915) 木製の橋も漏水激しくなり、風が吹くと危険なため本格的な石橋の工事が始まった。翌年、笹無田石拱橋完成。ところが通水後5日後に大音響とともに崩落。 なんででけたばっかりの橋が崩れたとか? 笹無田川ば横断するとに、鉄管サイフォン式で行われとった。しかし、大量の用水が勢いよく流れるためその圧力に耐えられす破裂したて考えられる。 崩壊した大音響は遠く離れた田圃まで聞こえてきたていう。人々は落胆し、この先どうなるとやろうて不安にかられた。しかし、早速木製の橋で応急的に水ば流し、一方で再度本格的な石橋建設ば進めていった。再建設に当たっては、地区住民から多くの寄付金が寄せられたていう。 そしてついに大正6年(1917) 造りかえた石橋の笹無田石拱橋が完成。これが現在も現役で活躍中。 大正11年(1922) 井路の水ば利用して発電ば始めた。上井田第一発電所は昭和20年まで続いたていう) 昭和50年(1975) 約5億円と10年間ばかけて井路の大改修ばした。 昭和60年(1985) 大改修事業の竣工ば記念して伊東俊次郎の記念碑が建立された。 平成8年(1996)に国の登録有形文化財に登録された。 総延長約20kmていうこの疏水のおかげで、耕地が狭く急峻な地形に棚田状に広がる大分県南部豊後大野市の「あさじ」地区は、関係農家300戸、関係水田面積100haが恩恵ば受けとる。 この地域の用排水路の多くは明治末期から大正年間にかけて造成されたもので、施設延長が長く条件の悪い場所にあるので、地区の関係者は維持管理に非常に苦労しとんなる。 若宮井路の受益地も耕作ば放棄する人が年々増大し今後の維持管理が非常に気掛ていう。 俊次郎は死ぬ間際までも若宮井路の必要性ば訴えとったていう。俊次郎の作った計画図面は現在も大切に保存されとるゲナ。 | |
場所・大分県竹田市大字挟田 太宰府ICから九州自動車道ば熊本ICまで92km、60分、2590円。インター出たらそのまま国道57号線ば阿蘇通り越して約60km、竹田市に入って「天神」の信号ば左折。県道638号線を2kmばかりあともどりすると左手にある。 | |
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