武雄温泉の歴史は、1300年も前に書かれた「肥前風土記」の中に出てくるぐらい古か。神功皇后も入浴しなったことのあるて伝えられとる。
文禄・慶長の役のときには、名護屋城(佐賀県)に集められた大勢の兵士が、武雄温泉に入りに来たこともあったらしか。兵士たちがほかの入浴客に迷惑ばかけんごと、秀吉は「入浴心得」ていう朱印状ば出しとったていう記録の残っとる。
江戸時代には、長崎街道の宿場町として賑うてクサ、宮本武蔵やらシーボルト、伊達政宗に伊能忠敬なども入浴したらしかバイ。
温泉の入口に立っとる朱塗りの楼門は、竜宮ば連想させるごたあ鮮やかな色彩と形で、釘ば一本も使かわんででけとる建築物ゲナ。
湯治に来た博多の慌てもんが、酔っぱろうてクサ、竜宮城に来たて勘違いして、飲み屋街のねえちゃんから、ケツの毛まで(インターネット表現コード違反)抜かれたていう、バカんごたあ話も残っとる。
楼門は東京駅ば作んなった辰野金吾博士の設計で、大正4年に建てられたとバッテン、もう古うなってどうしようもなかったとば、平成15年3月に復元されて立派になり、平成17年7月22日に国の重要文化財に指定された。
辰野金吾博士は、佐賀県唐津の出身で、東京駅やら日本銀行ば設計した洋風近代建築の第一人者やが、 こげな木造の和風建築ば手がけさっしゃった例はあんまりなかとゲナ。
じーっと下から見上げとったら、なんかリラックスして楽しんで作っとんなる、ていう感じがする。
楼門は桁行6.8m、梁間4.9m、高さ12.5mの木造二階建て、本瓦葺きの入母屋造りで、棟の両端には鯱が乗っとる。天平式「竜宮造り」ていうとゲナ。酔っぱらいが間違うはずタイ。
新館のほうは、大正4年に竣工したとバッテン、入湯客が減ったもんやケン、昭和38年ごろには閉鎖しとったらしか。 一時は老朽化で建物自体の公開もしとらんやった。
平成15年に復元して、いまは一般公開されとうとタイ。中はなかなか洒落とってクサ、大正ロマンの雰囲気が楽しか。
風呂は男女別々に「五銭湯浴室」と「十銭湯浴室」があって、どう違うかていうと、五銭の方は浴槽が大理石。十銭の方はタイル貼り。しかも値段が倍もする「十銭湯浴室」の方が狭か。普通は大理石の方が高級と思うバッテン、「十銭湯浴室」の方は、浴槽の底にその頃は珍しかったマジョリカタイルていうとが使われとったけんゲナ。
天井に八角形の湯気抜きがあって、ちょっと変わった雰囲気ば作り出しとる。
いまは浴室としては使わずに見せるだけ、女湯の十銭湯浴室の方が足湯スペースとして利用されとる。
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