文廟記
私(多久茂文)は多久家の長である以上、例え領土が小さくて狭かったっちゃ、領主としてちゃんと治めていく責任がある。バッテン、多久領は佐嘉城下からは離れた辺ぴな所にあって、領民は田舎者ばっかり。
「学問や道徳が大事バイ」云うてもなかなか分かりゃせん。
昔の人は、孔子の聖廟ば見れば、敬うて思いやりの心ば思い出したもんタイ。そやケン、多久に聖廟ば建ててクサ、領民に思いやりの心ば教えたか。聖廟ば見ることで、知識がなかっても、人として持つべき大切な、親孝行・兄弟仲良うすること、嘘ばつかんことが自然に身に付くはずタイ。
江戸でも湯島聖堂がでけて、幕府の役人やら大名が参拝し、講義ば開くようになったケン、学問や武芸・芸術までが盛んになった。そして町は活気に溢れとる。
主人も家臣も同じ気持ちば持って勉強すれば、多久は安定し、理想の世界となるやろう。
自分は、中国で孔子廟ば建てた武帝時代の学者にはとうていおよばんバッテン、多久に孔子廟ば建てて、孔子の教えば広め、少しでも世の中ばようしたか。
孔子の教えが多久の地に根付いて、領民がいつまんでも、孔子の徳にあやかれるごとしたかもんタイ。
この私の気持ちが理解できん領民がおるかも知れんバッテン、それは孔子の徳にお願いするしかなか。
左上・多久茂文の像 右上・多久市の友好都市で、孔子が生まれた中国の曲阜市(きょふし)から贈られた孔子像
元禄12年(1699)、茂文はまず学問所、後の東原庠舎(とうげんしょうしゃ)ば建設して、講堂に孔子像ば安置しなった。宝永5年(1708)には、椎原山の麓に聖廟(恭安殿)ば完成させ、孔子像ば納めなった。
以来、約300年間、多久の精神的なシンボルとして保存されてきたとバッテン、白蟻の被害やら雨漏りがするごとなったもんやケン、国・県の補助金ば受けて、昭和・平成にかけて大修理。平成2年、創建当時の本瓦葺の聖廟が見事によみがえったちゅう訳タイ。この恭安殿、建築様式は、禅宗式の仏堂やが、彫刻や文様で中国的な雰囲気ば上手に出しとる。そやけん国の重要文化財タイ。
聖廟全体は国指定史跡(大正10年3月指定) 恭安殿は国指定重要文化財(昭和25年8月指定)
上左・東原庠舎跡 上右・聖廟(恭安殿)
屋根は本瓦板葺で、柱に纏龍(まといりゅう)が彫刻されとる。現存する聖廟としては、足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)に次いで古か建物で、数ある聖廟の中で最も立派ていわれとる。
京都に製作ば依頼して元禄13年(1700)に鋳造した青銅造りの孔子椅坐像は、高さ90cm、重さ108kgで、こっちは多久市の重要文化財。
日本の美と中国装飾とのコラボレーション、多久聖廟。いっぺん見てみる価値はありますバイ。
山門のそばにある(右の写真の上部に写っとる)木は、楷樹(かいじゅ)ていうウルシ科の木で、和名は「孔子の木」ていうとゲナ。
原木は孔子の墓に弟子の子貢(しこう)が植えたていわれとる。
大正4年に原木の種ば貰うてきて、育苗した1本ばクサ、寄贈されたとがこの木タイ。
材質は緻密で強靱。だけん、きちんと書く楷書の語源はこの「楷」から来とるとゲナ。
右・上半分に見えとるとが「孔子の木」
そんなら、孔子さんちゃなんな、ていえばクサ、約2500年も前に生まれなった中国・春秋時代(西暦前771〜403)の思想家でクサ、儒教思想(儒学)の祖てされとんなる人タイ。
そんなら儒学ちゃなんかいな。
それば言い出しよったら、長うなってキリのつかんバッテン、一言で云うたら「敬(思いやりの心)が人間の根本じゃ」ていう教えタイ。
論語「子の曰わく、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋あり、遠方より来たる、また楽しからずや」ば作った人て云えば知っとろうもん。
聖廟の直ぐ後ろには、孔子にちなんで名付けられた「聖岳(ひじりだけ)416m」と「鬼の鼻山(435m)」がある。
また、聖廟とは全く関係なかバッテン、サザエさんの作者・長谷川町子さんが多久の出身ていうことは、あんまり知られとらん。
右・多久聖廟から見える、左が「聖岳」右端が「鬼の鼻山」
廟内の奥陣にある孔子像ば収めた八角形の厨子。聖龕(せいがん)ていうとは、孔子像ば外に出す時は解体せなならんとやが、解体の方法は秘伝ゲナ。これも国指定重要文化財
また、創建当時から続いとる聖廟釈菜(せきさい)ていうお祭りは、
春(4月18日)と秋(10月第3土・日)にあって、聖龕の中の孔子と4人の弟子の青銅像ば拝観できる。