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防御のための櫓やったけど一度も攻められたことはなか   「福岡県」の目次へ
国重要文化財

 福岡城南二の丸多聞櫓(たもんんやぐら)は、現在の福岡市に黒田藩により築かれた江戸時代の日本の城、別名、舞鶴城のなかにある。
 舞鶴城は国の史跡に指定され、 多聞櫓は昭和46年(1971)国の重要文化財に指定されとる。

 もちょつと詳しくいうと、慶長5年(1600) 黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いで抜群の功績ばあげたもんやケン、豊前国中津の16万石やったとから、筑前一国52万3千石ば貰うて、筑前の旧領主やった小早川秀秋の名島城に入城した。

 なにが功績やったかていうと、西軍やった小早川秀秋ば徳川方に寝返らせたとタイ。そのため劣勢やった戦いがいっきょに徳川に傾き、徳川が勝ったていう訳よ。

 戦いの後、家康は黒田親子の手ば握って「あんたたちのお陰で天下ば取れた。今後なんがあっても、黒田家は粗末にせん」ていうたゲナ。


 それで名島城に来たとバッテン、筑前ば治めるとに名島城じゃ窮屈で不便かもんやケン、博多の西の福崎丘陵ば新城地に選んだ。慶長6年(1601)には築城ば開始し、7年後の慶長12年(1607)に舞鶴城は竣工した。

 江戸期には歴代の藩主により二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に、11代藩主、黒田長溥(ながひろ)により大改修が行われた。

 現在、城の跡には現存しとった櫓や、移築された櫓、復元された櫓や城門があっちこっちに点在し、そのなかで、現在の多聞櫓は後世の改修ば受けたものと考えられ、平櫓は嘉永6年(1853)から翌年にかけて建て替えられたていう。

 多聞櫓の話しばする前に、まず舞鶴城(まいづるじょう)の話しからしてこないかん。
 江戸時代初頭、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政が、博多ば望む警固村福崎の丘陵地に築いたとが舞鶴城。

 明治まで福岡藩黒田氏の居城となった。築城の際に、福崎ば黒田家ゆかりの地やった備前国福岡の地名にちなんで「福岡」にした。その城は福崎丘陵に築かれた平山城で福崎丘陵いうとは、博多那珂川の西側にあった。

 なし多聞櫓ていうとか? 

 名称の由来は、最初に松永久秀が今の奈良市に作った多聞山城にこの長屋形式の櫓ば建てたことから。

 また楠正成(幼名多聞丸)が櫓の中に多聞天ば祀ったからてもいわれとる。

 松永 久秀(まつなが ひさひで)いうとは、戦国時代大和国の大名。松永 弾正(まつなが だんじょう)の名で知られとる。







↓ 多聞櫓の前庭は桜の木が多くて花の時期は花見客で満杯になる。

 福岡城に47もあったていう櫓のうち、永年の風雪に耐えいま残っとるとは、多聞櫓だけ。

 構造は、南西角にある二重二階建て切妻造りの角櫓と、桁行30間の西平櫓とからなっとる。
 もともと多聞櫓は防禦のための長塀で、普段は倉庫などに利用されとったていわれとる。

 櫓の機能は主にみっつあって、ひとつは「矢倉」とか「矢蔵」とも書くごと武器や食料ば格納する倉庫、そして弓や鉄砲を撃つための攻撃拠点、そして物見台としての「櫓」。

 櫓の中は、突き抜けの状態が普通バッテン、この多聞櫓は16の部屋に独立しとって、石落としのみで外ば見る窓のなか部屋もある。

 石落とし(いしおとし)いうたら、防御用の窓のこと。下向きに開いとっておもに真下の敵ば 攻撃するために作られとった。「塵落とし」(ちりおとし)ともいう。石ば落とすほかに煮え湯や汚物などば落として迎撃したともいわれとる。

 なお、現在のこの櫓は、昭和47年(1972)10月から2年半かけて解体、復元されたもん。

↑→ 多聞櫓の中は、普段見ることがでけん。
特別の許可ばもらうか、イベントの時だけ。
        舞鶴城
 本丸跡二の丸跡などは舞鶴公園となっており、平和台陸上競技場などのスポーツ施設がある。

 かつては西鉄ライオンズ・福岡ダイエーホークスの本拠地やった平和台野球場もあった。また、筆頭家老屋敷跡には福岡高等裁判所などの公共施設、その他の施設などが建築された。

↑ 旧天守閣跡からの桜満開の舞鶴城公園。↓ 四季を通じて花・紅葉。

 場所・福岡県福岡市中央区城内。天神から地下鉄空港線の姪浜行きに乗ってふたつめの「大濠公園」で下りる。地上に出たら堀を右手に約300mバック。「大手門」信号ば右折して舞鶴城公園内ば400m歩けば左上に多聞櫓が見える。    取材日 2007.1.19〜2016.7.28

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