このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

実弾で射撃テストばしょつたら暴発して壊れた     「大分県」の目次へ
  戦争遺跡

 九州と四国の間にある豊後水道の中で、最も水路が狭か部分ば豊予(ほうよ)海峡ていう。
 大分県大分市の関崎と愛媛県伊方町の佐田岬によって挟まれる海峡ば指し、速吸瀬戸(はやすいのせと)とも呼ばれる。もっと古くは「早水の戸」て呼ばれとった。

 なし豊予海峡なんて語呂の悪か名前かていうと、海峡の両側にある大分県と愛媛県の旧国名が、豊後国と伊予国やケン、1字ずつ取って豊予海峡て呼ばれとる。

 昭和になって対米英関係が緊迫してきたもんやケン、昭和17年(1942)にテストの実弾射撃ばすることになった。

 ところが最後の1発が砲塔内部で暴発してしもうて、砲室内におった内藤連隊長以下16名全員が即死。
 周囲の施設におった28名が重軽傷ば負うたていう大事故がおこってしもうた。

 砲塔内部のコンクリート壁には、そんときの深か傷跡が残っとって、その爆発の激しさば今に伝えとる。

 この事故があったもんやケン、丹賀砲塔は敵艦に向かって1回も砲弾ば発射することなくその役目ば終えてしもうた。

 代りの砲台としてあわてて作られたとが、別項の鶴御崎燈台で取りあげた鶴見崎砲台(15cmカノン砲)タイ。

 結局この丹賀砲台は一発の弾も撃つことなく、要塞自体太平洋戦争の戦況にほとんど関係せんで終戦となった。

そして戦後、連合軍によって接取されたのち破壊されてしもうた。

 その後長いあいだ土に埋もれとったとバッテン、平成元年(1989)に鶴見町(現佐伯市)が観光振興計画の一環として整備ば開始、
平成3年(1991)に
丹賀砲台園地として開園した。

 現在は
「ミュージアムパーク・丹賀」の一部として一般に公開されとる。

 砲台入口からは急角度の斜坑で砲台直下まで昇って行くことができる。

 「古事記」や「日本書紀」では、神武天皇が東征の途上で速吸門(はやすいのと)ば通んなったときに、このあたりの国つ神・椎根津彦(しいねつひこ)が現れて航路ば案内したて書いてあり、この速吸門が豊予海峡のことやろうて考えられとる。佐賀関には椎根津彦ばまつる椎根津彦神社が残っとる。

 この海峡に面した地域には明治から太平洋戦争の終戦までに、敵艦の侵入やら攻撃に対抗するため、大日本帝国陸軍により砲台やら堡塁(ほるい)などの要塞がいっぱい作られとった。これば豊予要塞(ほうよ ようさい)ていうた。その中のひとつが大分県佐伯市鶴見にある丹賀砲塔砲台ていう訳タイ。

 丹賀砲塔砲台は大正15年(1926)に起工。当時の技術では難工事で、出来あがったとは昭和6年(1931)やった。5年も掛かっとる。

 砲台に収まったとは、なんと大正12年に廃艦となった巡洋艦「伊吹」の後部主砲やった。口径30センチの二連装砲塔で射距離は26800メートルあったて記録が残っとる。

急な階段ば上っていくと砲台のあった最上階に出る。

 場所・大分県佐伯市鶴見大字丹賀浦女郎崎。福岡から九州自動車道〜大分自動車道ば走って、東九州自動車道の佐伯ICで下りる。「佐伯IC入り口信号」ば36号線へ左折。500mで国道217号線(佐伯弥生バイパス)へ左折。4kmの中江川渡ったら388号線へ右折。2kmで番匠川渡り「蛇崎」の信号ば左折。400mで堅田川渡ったらすぐに県道604号線へ左折。あと海岸線ば約15km走る。東中浦郵便局が見えたらやっと到着。  取材日 2008.9.11

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