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天保山ていう場所に架けたケン、天保山橋      「鹿児島県」の目次へ
 日本土木学会 九州の近代土木遺産

 天保山橋は、鹿児島市内ば流れる甲突川に架かるRC橋で、昭和10年に作られた。

 天保山橋ていうケン、天保時代にでけた橋かと思いよったら、そうじゃなかった。天保山いうとは地名で、天保年間に甲突川の氾濫ば防ぐため、川の土砂ば積み上げて造られた場所のことやった。
 その天保山ていうとこに架けた橋やケン、天保山橋ていう訳。分かりやすかハシ、じゃのうてハナシ。

 ところで、RCちゃなんかいな。
 一口でいうと、鉄筋コンクリートのこっタイ。

 コンクリートは圧縮力には強かとバッテン、引っ張る力には弱かケン、コンクリートだけでは強い橋桁はできん。

 引っ張る力の強か鉄筋ば、コンクリートとの中に入れれば強か橋桁になる。これがRC (Reinforced-Concrete・圧縮されたコンクリートの頭文字)タイ。

 鉄筋のかわりに高強度のピアノ線ば使うてクサ、それば引っ張ることであらかじめコンクリートに圧縮力ば与えとくと、さらに強か橋桁になる。

 これがPC(プレストレス・コンクリート)いうて、大きな橋にはこのPCがよかとバッテン、コストはうんとかかる。

 ちょっと、ええ格好して受け売りば披露してしもうた。

 天保山橋は、美しか和風高欄と灯籠風の親柱ば持っとって、橋床には県内産の花嵐石が使われとったとやが、甲突川一帯の災害復旧工事で、架け替える際に(平成5年)撤去されてしもうた。

 いまの天保山橋は、架け替えられた橋やが、石灯籠型の親柱やら和風の欄干は、当時のものば使うてある。

 また、橋脚は、川の流れば良うするために、かつての7本から3本に減らしてあるゲナ。

 甲突川にいっぱい橋ば架けたとは、肥後から招かれてきた岩永三五郎バッテン、この天保山橋は昭和のことやケン、三五郎は関係なか。完成が昭和10年(1935)ていうことは分かっとるバッテン、設計者も不明。施工者も不明。そのくせ九州の土木遺産に選ばれとる不思議な橋タイ。橋の長さは112.0m。径間14.0m。

 その天保山橋。国道225線の交通量に耐えられんごとなったため、昭和42年に国道ば拡幅して隣に天保山大橋が架設され、国道ごと移転したケン、いまは旧道の橋としてのんびりしとんなる。

 甲突川のいちばん河口近くに架かっとる橋やケン、近くの天保山公園、その松林の中には旧薩摩藩の砲台跡がある。

 むかしは、天保山橋の左岸には
沖の村ていう遊郭があって、村長のおらん村として有名やったゲナ。
 「桜がないのに桜島、村で無いのに沖の村、石で造った武之橋」て唄にまでなっとったらしか。

 戦時中、45連隊の若っか兵隊達は、左岸攻撃いうて沖の村目掛けて突撃して来よったていう話しが残っとる。

 平成5年に架け替わった天保山橋の向こうに、国道の天保山大橋が見える。この大橋がいまのところ、甲突川一番下流の橋ていうことになる。

 玉江橋 嘉永2年(1849)
 三五郎が架けた五大石橋の中で、一番最後に架けたとが、甲突川の最も上流に架かけた玉江橋。この橋ば架けるころには、島津藩も財政的に行き詰っとって、完成するとやろうかて危やぶまれとったゲナ。
 そのためか橋巾もほかの4橋に比べて狭く、作りもあっさりしとる。平成12年、石橋記念公園に移設復元された。

 新上橋 弘化2年(1845)
 岩永三五郎が甲突川に最初に架けた石橋がこの新上橋で、新照院町に架かっとった。
 この場所は甲突川でも川幅50メートルを越す場所やったケン、三五郎は新しか試みば施した。それは4連アーチにしたこと、水流が真正面から当たんごと、橋脚ば下方ほど広くしたこと、またアーチの径間も微妙に広さば変えて、流れから橋脚ば守る仕組みやったらしか。それでも流失してしまうほど平成5年8月6日の集中豪雨はヒドかった訳タイ。

 西田橋 弘化3年(1846)
 島津藩の表玄関に当たる橋で、当然大名行列も通る場所やった。そのため橋自体も贅を尽くした作りで、立派な欄干や扇形に組んだ壁面、その上アーチも二重構造にしてあって、三五郎にとって代表作ていうてもよか石橋やった。
 平成5年の集中豪雨で新上橋、武之橋が流失してしもうたもんやケン、これもこのままでは危なかいうて、平成12年に惜しまれつつ現在の石橋記念公園に移設復元された。

 高麗橋 弘化4年(1847)
 高麗橋は西田橋のすぐ下流に架かっとった橋で、大型トラックも離合できるほどの橋巾ば持っとった。
 この橋は三五郎が甲突川に架けた3番目の橋。この頃になると三五郎は、橋が完成したら口封じに暗殺されるとば心配して、息子やら弟子たちばつぎつぎに熊本に帰しよった。そやケン作業は地元鹿児島の石工がしたらしか。この橋も西田橋同様、石橋記念公園に移設復元されとる。

 武之橋 嘉永元年(1848)
 甲突川の河口に架かっとった橋で、三五郎が甲突川に架けた4番目の石橋タイ。この橋は五連で、橋長71mは江戸時代に架けた石橋では日本一の長さやった。
 ほかの橋同様にこの武之橋も水流に持ちこたえるためアーチの大きさば変え、真ん中が15.5m、その両脇が13.3m、両端が10.9mやった。これだけの長い橋になるとクサ、アーチの高低差も大きゅうなって、当時は荷物ば運ぶ馬が橋の手前で一息ついて、その後一気に橋の中央まで駆け上がりよったらしか。 平成5年(1993)の水害で流されてしもうた。

 江戸時代はまあだ天保山橋が無かったケン、河口から帆船が武之橋まで自由に上って来よったらしか。この辺りはむかし、武村の飛び地やったいうことで、武之橋の名がついたとゲナ。

 結局、三五郎は鹿児島に甲突川五橋と、河頭太鼓橋、大乗院橋、稲荷川橋ば 残したとバッテン、玉江橋・西田橋・高麗橋の三橋が石橋記念館に保存された以外は、流されてしもうたり新橋に架け替わったりしてもう見られん。


岩永三五郎が架けた甲突川の橋(上流から)

 場所・鹿児島市下荒田1丁目。九州自動車道ば鹿児島ICで下りたら国道3号線ば左折。すぐトンネル。指宿枕崎線ば高架で越える。そままま市街地ば1km直進。天保山大橋のたもとに突き当たる。すぐ左に天保山橋。  取材日 2007.8.9

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