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空海創建の日本一ふるか真言宗の古刹        「福岡県」の目次へ

 地下鉄祇園駅の1番出口ば出た所、町のど真ん中にある東長寺。正式には南岳山東長寺ていう。

 大同元年(806年)に、唐で修行した弘法大師が、帰国して博多に上陸しなったとき、持って帰った仏像やら教典・仏具などば納めるとに一軒の船宿ば買い取って、そこば寺にしなったゲナ。

 寺の名前は真言密教が「東に長く伝わるごと」ていう願いば込めて「東長密寺」て名付けなった。

 弘法大師いうたら、醍醐天皇から貰うた諡号(しごう・送り名)で、本名は佐伯真魚(さえきのまお)ていうと。1300年も前の坊さんタイ。

 19才で四国の山に籠もって修行ばしよんなったとき、目にしたとは「空と海」しかなかったケン
「空海」て名乗ったとゲナ。

 ある日、明星が口ん中い飛び込んできて、悟りば開きなったて、ウソんごたあ話しの残っとる。

 804年に遣唐使の留学生として最澄やらといっしょに唐に行きなった。帰ってきて最澄は天台宗ば、空海は真言宗ば興しなったとタイ。

 「空海」ていう名前のラーメン屋がある。「ラーメンでも食うかい」て、また駅長のダジャレ。

  この時、弘法大師はわずか33歳やったゲナ。

 それが今の東長寺で、いっとき志摩郡志登村に移った後、現在地に移転したていわれとる。
 弘法大師が日本で一番に作んなった古いか霊場ていう訳。ていうことは真言宗で一番古か寺ていうこっタイ。そやケン、真言宗の別格本山てなっとおと。

 二代藩主黒田忠之(ただゆき)が施主になって、300石の寺領と山林15万坪ば寄進しなったゲナ。それで寺の経営が固まった。そらあそうやろう、藩主がバックにつきなったっちゃもん。以来、黒田家の菩提寺として、二代忠之、三代光之(みつゆき)、八代治高(はるたか)の三藩主が葬られとる。特に、二代忠之の墓石は日本で2番目に大かとゲナ。

 
本来、黒田家の菩提寺は千代町の崇福寺(そうふくじ)で、藩祖の黒田孝高(如水)、初代長政、以下が祀られとうとい、何で忠之が東長寺に墓ば建てたとか、ていうことやが、理由としては、忠之が幼少時の頃、家庭教師ばしよったとが真言宗の坊さんやったていう説が有力ゲナ。

 バッテン、黒田騒動ば引き起こしたとが忠之やケン、爺ちゃんと親父のおる祟福寺ば敬遠したとかも知れん。

 槙(まき)の木に彫られた千手観音立像が国宝で、これは平安時代の作げなバッテン、こらあ、ちょっとやそっとじゃ見せて貰われん。それに、この九州遺産では建造物しか扱わんと。六角堂が市の文化財タイ。

 本堂前にある
六角堂は、天保13年(1842) 博多におった豊後屋栄蔵(ぶんごや えいぞう)いうとが、名古屋以西の商人から浄財ば募って、名古屋の宮大工伊藤平左衛門に建てさせ寄進したものゲナ。

 中には弘法大師像ほか6体の仏像が置かれ、六角形の厨子扉には仙崖和尚やら当時の有名人の書画が刻まれとる。

 普段は扉が全部閉まっとるバッテン、毎月28日の不動護摩供養のときには開帳される。



左・普段は閉まっとる六角堂・
左下・六角堂の前にある二本のさくらが満開のときは、花見客で境内が華やかになる。
下・ご開帳の日だけは中の拝観ができる。

福岡大仏
 昭和63年(1988)から彫刻がはじまり4年がかりで、平成4年(1992)に完成した。
  木造坐像では日本一大きかとゲナ。

 仏像の高さ10.8m、重さ30t。7仏・13仏の彫られた光背の高さが16.1mもあって、普通のビルの3階分くらいの大きさがある。

 後ろには5000もの小仏が、壁面いっぱいに祀られとる。

 高さが10.8mてうとは、人間の持っとる煩悩が108あるげなケン、そればなくしてもらおうていうことらしか。

 大仏の台座の中は「地獄・極楽めぐり」になっとって、地獄の絵ば見せられた後、真暗な通路ば通って極楽の絵にいき当たるていう仕掛けがしてある。

 曲がりくねった真暗な道ば、手探りだけで進んでいくとは、ほんなことい気色の悪か。
 出口の明かりが見えたときは極楽にたどり着いたごとホッとする。

 大仏の拝観も「地獄・極楽巡り」もタダていうとがよかバッテン、撮影は禁止。
 駅長の写真は間違うてカメラが動いたと。

 真言宗の古刹も、いまでは町の真ん中になってしもうて、ぐるりぐるっとビルばっかし。

 心ない観光客が「地価が高いこんな町の中にいなくても」て云うたとば寺の人が聞いて腹かいとんなった。

 寺にしてみれば1300年も前からここにあったっちゃケン、回りのビルのほうが憎たらしかろうタイ。

 どっち向いて写真撮ろうてしても、ゲサクたらしかビルと看板が写る。
 パリのごと都市の景観ば守る法律ば作って、回りのビルはみんな崩してしまわないかん。

上・真ん中にあるとが大仏さんの入れ物。
 品もせせらもなかビルと看板に見下ろされて寺が可哀想。
左・地獄巡りの亡者達( ? )ば迎えてくれる阿弥陀三尊。

 二代藩主・忠之は寛永元年(1624)藩主になった途端、鳳凰丸ていう豪華な船ば造ったり、200人もの足軽ば新規に召し抱えたり、軍縮の時代に逆ろろうて、幕府から咎められた。
 藩の取りつぶしば心配して家老の
栗山大膳が動き、何とか所領は安堵されたとバッテン、これが第一の黒田騒動タイ。
 第二の黒田騒動は、三代
光之の長子綱之が、あんまり切れ者やったもんやケン、後ば継がせたら危なかて思うて屋形原に幽閉し暗殺、弟の綱政ば四代にした。当の光之も綱之派から毒殺されたていう説もある。四代綱政の墓は祟福寺にあってここにはなか。
左・二代忠之、中・三代光之、右・八代治高の墓

       総木造りの五重塔

 東長寺創建1200年の節目事業に住職が建立ば思い立った五重塔。
 4年前のことやった。

 2008年4月1日に着工して3年目の2011年、九州には二つしかなか総木造の五重塔がでけあがった。

 あとのひとつはどこかていうと、玉名市の蓮華院誕生寺。ここんとは高さが51mもある化けもんのごたる塔やケン、
比べもんにはならん。

 東長寺のとは、高さが26mで全部が高知と奈良産のヒノキで作られとる。

 そげぇーん高っとが、地震やら台風には大丈夫かと ?

 心配せんちゃよか。チャーンと地下の土台はステンレスでしつかり作っちゃるゲナ。

 それで、いくらかかったとな ?

 総事業費は8億円ゲナ。

 どこが請け負うて作ったとな ?
設計・施工は東京の松井建設ていう。

 藤田住職から「100年後の重要文化財になるごと、一番よか材料、技術ば使うてやっちゃんしゃい」て
頼まれたもんやケン、男の意気に感じて3年間頑張んなった。

 モデルにしたとは、総合監修する一級建築士の小島清さんが「最も美しか五重塔」て考えとんなる京都の醍醐寺の塔ゲナ。 使う材木も全部強度実験ばして確かめたていう。

 物好きな駅長も途中までしかでけとらんとき、博多っ子講座で特別になかば見せてもろうたバッテン、あっちこっちに新技術・新工法が使われとるとば知ってたまがりかえった。

 塔の最上部ば飾っとる高さ8mもある「相輪(そうりん)」がクサ、地震のときに根元から折れやすいことが分かったケン、相輪ば支えとる心柱(しんばしら)に振動ば吸収させる特殊なゴムば使うたりしとんなる。

 相輪の一番下の伏鉢(ふせばち)いうとは、「仏舎利」が納められる重要な部分タイ。

 仏舎利ちゃなんかいうたら、空海が唐から持って帰った釈迦(しゃか)の骨ば入れるもん。もともと五重塔いうたら、お釈迦さんのお墓ていう訳よ。

 塔本体は瓦ば葺いて、2010の12月末には完成した。

 故平山郁夫さんの弟子の日本画家、鳥山玲さんが本尊の安置される1階に、大日如来像と壁画ば描いて落成する。

 落慶法要は5月の予定ゲナ。

バッテン、もう今でも外観は見られるケン外国からまで観光客が見に来とる。

 弘法大師がクサ、唐の修行ば2年で切り上げ、やっとこっと帰ってきて、対馬小路のボロで小さな船宿ば買い取り、持ち帰った経本やら仏具などば納めなったとが809年の10月で、これが日本の密教寺院の始まりやったて伝えられとるとタイ。

 それから1200年も経ってこげな立派な「墓」ば作って貰うなんて、考えてもおんなれんやったろうケン、さぞかし喜んどんなるこっちゃろう。
 場所・博多区御供所町。JR博多駅から大博通りば海の方へ歩いて行くと、祇園町の先の右手にある。呉服町の交差点からやったら、博多駅向いて10分で左手に長い塀が見えてくる。車は無料の駐車場がある。
                               取材日 2008.04.06/2011.4.5
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