このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
江戸時代・長崎におった中国人の居住区 「長崎県」の目次へ |
|
その広さは約9,400坪もあって(ヤフオクドームなら3つ分の広さ)、木造2階建ての長屋が約20棟立ち並んどって、2,000人から3,000人程度の収容能力ば持っとった。 唐人屋敷(とうじんやしき)は、江戸時代の「鎖国」政策により設置された長崎の中国人むけ住居地区の名称。 土神堂 どじんどう 観音堂 かんのんどう 天后堂 てんこうどう 唐人屋敷跡に残っとる遺跡 天明4年(1784)の大火では唐人屋敷全体が関帝堂ば残して全焼、大火以後唐人が自前で住居などば建てることが認められたとバッテン、安政6年(1859)の開国によって唐人屋敷は廃屋化し、文化4年(1870)の火災で全部焼失してしもうた。 土神堂(どじんどう)は、1691年9月、土神の石殿ば建てたかていう唐人たちの願いが許され建立されたと考えられとる。 天后堂(てんこうどう)については元文元年(1736)南京人たちが航海安全ば祈願し、航海安全の女神ていう天后聖母ば祀るため建立したものて言われとる。 観音堂(かんのんどう)は、瓢簟池の石に「元文二年(1737)」の刻字がありこの年に創建されたことが想像される。 |
「精霊流し・ペーロン・龍踊り・皿うどん・ちゃんぽん」 当時、中国からの輸入品はていうと、、生糸などの織物や、砂糖、薬品、香料、金属、書籍などが多かバッテン、最大の輸入品はやっぱぁ中国文化。 その後、在住中国人は隣接の長崎市新地町に中華街ば形成し、これがいま長崎新地中華街となっとるとタイ。長崎中華街の歴史だいたい分かった? |
場所・長崎県長崎市館内町。 太宰府ICから九州自動車道・長崎自動車道ば終点の長崎ICまで。136km。1時間半。ETC 3,540円。ゲートば出たらそのまま真っ直ぐ繋がっとる「ながさき出島道路」ば終点まで走る。3.4kmで100円。終点の「市民病院前」信号ば右折し市電と並行して約200mの信号から右折。右手に湊公園ば見て、福建通りば400mも走ればもう館内町の唐人屋敷跡。 |
待合室へ |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |