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フラミンゴのごたあ長くて細い脚      「大分県」の目次へ
 県指定文化財

 宇佐市院内町は「石橋の町」で日本一。
 駅館川に合流する恵良川とその支流に、74基もの石橋が架かっとる。その全部が江戸時代末期から昭和初期にかけて造られたもんていう。

 
鳥居橋もそのひとつタイ。短パンはいた若っか女の子のごと、すらっと伸びた橋脚、あんまり格好よかケン「石橋の貴婦人」てまで呼ばれとる。

 このへんお宮も見当たらんとに、なんで鳥居橋かていえば、小字名が鳥居原ていうたケン、そっから採ってつけられたとゲナ。

 院内の石橋で人気ナンバーワンの代表的な石橋タイ。恵良川に架かるこの5連アーチ橋は、橋長は55.15m。橋高11.0m。橋幅4.35m。凝灰岩でてけた5連の石造アーチ。

 設計者は都留清一郎。政治家でもあり、水カタービンば設計して精米業ば営んどった実業家でもあったゲナ。
 作ったとは町内の石工松田新之助。大正5年(1916)7月に完成し、これまで多くの大洪水にも耐えてきた。

 昭和26年10月の「ルース台風」で水かさが12Mば越え、町内242戸の家屋が全壊流失したり、豊州鉄道の第2駅館川橋架までも流失したとに、鳥居橋は悠々と残っとった。

 これは地盤やら水流に応じた設計がされとってクサ、スパンの長さやら、橋の厚みがそれぞれに違えた設計になっとったケン、よかっとうとタイ。

 設計と技術の正確さを証明しとる以外のなにものでもなか。改めて石橋の強さば教えられて、みんな「ぽかーん」としたゲナ。
 現在、上流に新橋が完成しとるけど、今なお地元の生活路として使われとる。

 アーチ石橋の技術は、紀元前1世紀頃ローマに架けられたのが始まりゲナ。

 この技法が日本へ伝わったとは、江戸時代の初めで、中国僧が長崎に伝えたらしか。以来、九州各地に広まってクサ、大分には熊本を経て伝えられたていわれとる。

 深い谷に集落が点在する地形に造られた5連アーチは「例えようもなかごと美しか」ていうとが地元の自慢タイ。

 「そんなら、もうちょっと回りば整備したらどうじゃろかい」ても思うバッテンねえ。

 大分県は「石の文化」ていえば、なんか住んどる共頑固もんばっかりのごたるバッテン、そうじゃのうて、実際、磨崖仏(まがいぶつ)は全国の七、八割ば占めとるとゲナ。

 また国東塔をはじめ独特の、しかも捨てるごとある石塔類、石造アーチ橋の数にいたっては、石工で有名な肥後ば抜いて日本一げなバイ。

 県内に現存する石橋は約500、流失したり撤去したもんば加えると690にもなるとゲナ。そのうちの一割、60余橋が宇佐市院内町にいまも残っとって渡られるいうことが、たまがるじゃなかね。まさにこれこそ「生きとる文化財」やねぇ。

 院内町は隣の安心院町(あじむ)が盆地なのに対し、深か峡谷ばっかりで、昔から「院内谷」て呼ばれとった。
 浸蝕してその谷ば作ったとが、駅館川(やっかん川て読むと)の上流の恵良川とその支流ていう訳タイ。そやケン、石橋がいっぱい架かっとると。谷ばっかりやケン、石橋のなからな町内ば行ったり来たりするとにも不便で、日常の生活がにっちもさっちもいかんやったろう。

 有名なものは県指定の文化財となっとる鳥居橋、御沓橋、町指定の荒瀬橋、富士見橋、西光寺橋、飯塚橋、分寺橋などバッテン、水雲橋などもよか。

 なかでもこの鳥居橋は、下から見上げたら高さがあって美しか。「ローマの水道橋ば思わせる」ていうとは、あんまりバッテン、たしかにスマートさが感じられる。

 松田新之助は近代の名工で、ほかにいくつもの橋ば架けとんなるバッテン、江戸期の山村藤四郎はじめ、大正から昭和初期にかけて、院内谷では二十余人もの名工の名前が伝わっとって、肥後の種山石工にも負けとらん。

 橋の名前 架かっとる川 架橋年 石 工
一の橋北山川明治25年(1893)加来由蔵  小野萬吉
堺橋北山川昭和8年(1933)井上滝蔵
北山水路橋藤ケ谷川大正末期
毒水谷水路橋毒水川明治39年(1906)渡辺徳丸
鳥居橋恵良川大正5年(1916)松田新之助
櫛野橋恵良川大正12年(1923)岩淵万吉
松木橋妙見川昭和23年(1946)迫野盛一
香下神社第一神橋大正4年
香下神社第二神橋大正4年
香下神社稲荷橋大正4年
打上水路橋高並川昭和初期
打上橋高並川文久3年(1863)山村藤四郎
永原橋高並川大正10年(1921)
谷橋高並川明治2年(1869)赤松次郎
宮の上橋船木川大正初期
神通橋船木川明治25年(1892)赤松次郎
御仮屋橋高並川明治25年(1892)
渡谷橋高並川大正末期
小稲橋高並川大正末期松田新之助
橋詰水路橋高並川江戸末期
長六橋高並川昭和7年(1932)松田新之助
新太郎橋高並川明治初期川野新太郎
大重見橋大重見川昭和20年(1945)
御沓橋恵良川大正14年(1925)松田新之助
福巌寺羅漢橋境内の池江戸末期
荒瀬橋恵良川大正2年(1913)松田新之助
大副水路橋(田の畦)大正末期
大副池橋不詳
水雲橋恵良川昭和2年(1927)松田新之助
久地橋明治初年
原口水路橋日岳川大正末期
上出平橋日岳川昭和3年(1928)
山の迫水路橋山の迫谷川大正2年(1913)
五名神橋不詳
日岳境橋五名谷川昭和期
日岳橋谷川昭和31年(1956)
宇土橋日岳川昭和期
富士見橋恵良川大正14年(1925)松田新之助 吉村万太郎
鷹岩橋恵良川昭和3年(1928)佐藤半次郎
中島橋院内川大正10年(1921)松田新之助
宮の瀬橋院内川明治40年(1907)
畦橋谷川昭和期松田丑男
景平橋院内川大正13年(1924)松田新之助
紀念橋院内川大正13年(1924)御幡億二郎
屋敷の原橋院内川大正7年(1918)御幡億二郎
田の原橋院内川昭和2年(1927)御幡億二郎
田の原橋院内川昭和2年(1927)御幡億二郎
経座橋大門川昭和25年(1950)中門岩男
院内橋大門川昭和25年(1950)
トイノモト橋院内川明治末期日野宝作
西光寺橋院内川江戸末期
月俣神橋諸趾垣川大正12年(1923)日野宝作
樋本橋院内川大正11年(1922)日野宝作
宮地嶽橋不詳
大畑橋用水路明治末期大畑(某)
広丸橋広丸川大正2年(1913)吉村 栄
飯塚橋余川明治初期
小野谷橋小野谷川昭和26年(1951)
裏谷橋裏谷川昭和32年(1957)佐藤 勇
出口の橋大正末期
フネガモト橋昭和38年
両合川橋小平川大正14年(1925)吉村万太郎
落合橋滝貞川大正末期後藤セキ三郎
分寺橋恵良川昭和20年(1945)高名繁喜
土岩屋橋恵良川大正11年(1922)松田新之助
コチバサコ橋恵曽川大正12年(1923)
シリナシ橋シリナシ川昭和期
椎木橋下恵曽川昭和14年(1939)
宇土川橋宇土川大正10年(1921)
和田川橋和田川大正10年(1921)
野地橋温見川大正4年(1915)
中鍋橋温見川昭和12年(1937)
飛石橋野地川昭和2年(1927)
念仏橋野地川昭和3年(1928)
葛灰橋不詳
打上川板橋不詳
院内町の石橋群     県指定文化財 国登録文化財 駅長推薦

 院内町の橋回りばしょうちゃ、やおいかんよぉ。1日じゃとても回りきらん。
 まず、道の駅でマップば貰うて(ついでに云うとくバッテン、ここの猪うどんは旨か)東からでも真ん中からでも回ってみんしゃい。いっち南の念仏橋やら葛灰橋には、駅長もたいがい手こずった。

 場所・宇佐市院内町香下。大分自動車道ば玖珠ICで出て右折。国道387号線ば約36km北上。院内町通過して宇佐別府道路をアンダークロスしたら約150mで右折すぐ。北九州からなら国道10号線宇佐市の法鏡寺信号を右折して国道387号線を約6km南下。別府宇佐道路が見えたら左折すぐ。          取材日 2005.2.9 & 2006.6.19

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