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対馬海峡ば守った頑強な要塞と2門の砲塔       「長崎県」の目次へ
対馬・要塞遺跡

 砲台は鉄筋コンクリート製で、爆撃に耐えられるごとコンクリート壁の厚みは2メートル以上もあった。特に砲塔部は、厚さ3mの擁壁で保護され、そこに砲身18.5メートル、口径40センチていう、巡洋艦「赤城」の主砲やった加農砲2門ば持ってきて据すえとったて言われとる。(「長門」ても「土佐」てもいわれとってほんなことは分からん)

 発射指令(観測所)は、現在の海上自衛隊上対馬警備所、西泊権現山、上県町棹崎にあって、潮の干満・潮流の速度・距離なども測定しよったらしか。また砲撃指令は空中・地下・海底の三方式で伝達するごとなっとったていう。

 この加農(カノン)砲は、名実ともに世界最大の巨砲やったケン、壱岐の黒崎砲台と連携して、海峡ば通る敵艦ば挟み撃ちにしようてした訳やったっちゃが・・・・・。

 豊砲台は、対馬のいちばん北、豊崎にあった。いまは豊(とよ)砲台跡とか豊崎砲台跡ていいよる。

 対馬の北部は、明治41年(1908)島嶼町村制(とうしょちょうそんせい)の施行によって、上県郡豊崎村・琴村がまず発足しとる。

「島嶼町村制ちゃなんてなんかいな聞いたことがなかバイ」て思うやろう。これは明治政府が、本土の町村制とは別に、島嶼部(離島)に限って施行した特別な行政組織のことやったケン、本土の人間にはなじみがなか。

 現在の東京都伊豆諸島、島根県隠岐諸島、
長崎県対馬、鹿児島県三島村・トカラ列島と奄美群島、沖縄県で施行され、特別の島庁いうとが設置されとったゲナ。

 昭和23年(1948) 豊崎村が町制施行し豊崎町になり、昭和30年(1945) 豊崎町・琴村が合併して上対馬町が誕生。

 平成16年(2004) 対馬の全部が大合併して対馬市になったもんやケン、今の住所は、長崎県対馬市上対馬町鰐浦。

上2枚・巾も高さも10m以上ていう砲塔ば、上と下から見た。

 対馬のほかの砲台といっしょでクサ、ここの砲台も実戦では一発の砲弾も撃たんまま、昭和20年10月、米軍の爆破班から解体されてしもうとる。

「まぼろしの砲台」として今の姿になってしもうたバッテン、兵舎・台座・地下室など、往時の面影ば偲ぶことがでける。昭和59年(1984)上津島町は、こげな施設が二度と造られんごと、永遠の平和ば願うて復元し、見学でけるようにした。入口でお金を入れれば、100円で30分照明が点く。

ところで、今の対馬警備はどげんかていえば、陸上自衛隊対馬警備隊と海上自衛隊対馬防備隊、航空自衛隊第19警戒隊が近代装備でちゃーんと守ってくれとんなるケン、いっちょも心配はいらんと。

で、豊崎村やが、ここは朝鮮海峡に面しとって、軍事上要衛の地やった。そやケン、日本海と朝鮮海峡の制海権ば確保して、かつ守るために昭和4年(1929)5月に起工、5年かかって昭和9年にでけあがったとが豊砲台タイ。

 この頃日本政府は、ロシア・イギリスによる対馬への接近に脅威を感じとったケン、国境最前線にある対馬の要塞化ば急ぎよった。豊ば始め、竜ノ崎、竹崎、海栗島などに砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体ば防衛できるぐらいに整備されていった。

砲台の上に上がったら、草ぼうぼうやった。柵の右が砲塔のあった場所。のぞき込んだら10m以上の巾と深さがあった。間違うてもこげなとこには、韓国観光団も来んケン、遺跡は静寂の中にじっと眠っとった。

戦争の遺跡は薄暗うて、そこで人が死んどらんやったっちゃ不気味か。人間の愚かな行為の記念碑タイ。

 場所・長崎県対馬市上対馬町鰐浦。対馬空港から国道382号線ば約66kmただひたすらに対馬ば北上すると、比田勝港に着く。ここからさらに県道182号線を北へ約4kmで豊の集落を抜けたら1kmで右折。くねくねとした山道を登り上がると砲台跡の駐車場に着く。約1km西には韓国展望台があってハングルが乱れ飛んどる。 取材日 2008.10.15

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